逞しく生きていた証しを知る 『近世大坂の町と人』より ☆☆☆

『近世大坂の町と人』 著者 脇田 修 

いやあ、自分の生まれた所の歴史をこんなにも知らないものか?

ホント、改めて情けなく思う。

無知や思い込みによる誤解も一杯だ。

おじさん、大阪の町の歴史については、実は少し、自信があった。

だが、この本を読み、馬脚を現した感じだ。

さすがに、研究されている大学の先生の知識は違う。

いくら博学でも、その地に思いがこもらない知識なら、おじさん、それほど羨ましくは思わないが、この著者の大阪への思いは、おじさんをはるかに凌駕している。

どうも、大阪の曾根崎辺りで生まれ育っているようだ。

これは、太刀打ちできない。

謙虚に学びたい。

で、今回は、おじさん、本書を読み、気付いたままに、改めて大阪について思いを新たにしたことを覚え書きすることにした。

 ……

①どうも、おじさんたちは、大阪のいにしえを考えた時に、例の仁徳天皇が炊飯の煙が立ち上る光景を眺めた浪速の津や大陸からの使者を饗応した難波宮を思い起こすせいか、古代から現在に至るまで、大阪の賑わいが連綿と続いているように思ってしまう。

だが、どうも、一部、四天王寺周辺の門前町は栄えていたが、近世に真宗の蓮如が石山の地に本願寺を起こすまで、単なる海に臨む荒涼たる湿潤地だったようだ。 


②平家物語に登場する源頼光の四天王の一人渡辺綱(わたなべのつな)の系譜に繋がる渡辺党(武士団)が拠点にしていたのは、現在の梅田(埋め田)から天満辺りだったらしい。

源義経は、四国屋島の合戦に向かう際、この辺りから暴風雨を突き切って淡路島に渡ったのだろうか?  

※現在も渡辺橋と言う地名が残っている。 


③1498年(明応8年)、四天王寺の門前町は、7000軒の在所。

人口にして数万の都市。当時の堺、博多に匹敵する大都市。

これらの人は、戦乱続く不安な世を、四天王寺と言う大寺院の庇護の元に暮らしを立てようとした。

浜市が開かれていた。

商われた物品は、米、塩、酒、麹、塩干魚、栗、柿、布、紺染め、紙、笠、蓆(むしろ)、塗り物、竹、鋤、鋳物、唐物、刀剣などがある。

※多くは座の組織を取っていたようだ。 


④四天王寺からは大阪湾に沈む夕陽が望める。

西方浄土への往生を願い、この辺りでは盛んに夕陽が信仰の対象になったのだろう。

そこで、この上町大地の四天王寺周辺に夕陽丘の名称が残った。

これが、おじさんの古本屋の所在地に当たるわけだ。 


⑤大阪(大坂)は、元々、蓮如が隠居所を作った、今の大阪城辺りを指す地名だった。

そこを拠点に、寺内町として拓けていく。

その後、船場を包含し、近世前半には伝馬を合わせて、それらを総称して大坂と言うことになった。

蓮如が選んだ場所は、東と北に、大和川と淀川の二大川が流れ、西は海を控えた要塞の地で、交通の要衝だった。

もちろん、城塞を作るには最適の地である。


⑥堺は、16世紀に最盛期を迎え、自治都市(無縁所)として運営されていた。

大坂南部の和泉、摂津の境に発達した港町で、南北二町に分かれていた。

京都、奈良の豊かな畿内地域を背後に持ち、瀬戸内海を通して、西日本各地はもとより、朝鮮、中国、東南アジア、ヨーロッパとの貿易も行っていた。

当時、もう一つ、平野川の水運を利用した内陸運輸の要として、平野と言う栄えた自治都市があった。

※現在の大阪市平野区辺り。

末吉橋と言う地名が残るが、その指導者層に、名主 東西二つの末吉家があった。 


⑦権力を取ってからの秀吉は多くの問題を持っている。

日本のタテ社会的構造を強め、身分制を含め、ある種の管理社会を構築した。

土着していた中世の武士は、城下町に移住させられ、さらに、転封(てんぽう)により他国に移動することになる。

これにより、武士の生活形態は大きく変化する。

《太閤検地》や《人掃令(ひとばらいれい)》により、土地台帳と戸籍が全国的に作られ、兵農・商農分離の身分政策により、身分の固定化が進む。

こうした、日本社会に残した負の影響も大きい。 


⑧豊臣秀吉の辞世の句。

〈露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢〉 


⑨徳川政権の《大坂の陣》以降の再建計画では、大坂は、上町台地と、北野天満の東部と北部に武士の屋敷を配し、西側の船場、島之内、天満に町屋を集める。

寺町は、上町台地南部と天満の北側に置かれている。

さらに、大坂の南部には、芝居町の道頓堀、新町遊郭があり、地域の外側に渡辺村など、四ヶ所に非人村を配している。

明確に、身分による土地分布の色分けをしている。

身分差別の都市計画だった。 


⑨道頓堀の開発者は安井道頓と言われているが、実は、成安(なりやす)道頓の間違いである。

二人とも同格の名主を背負う人だ。

安井は久宝寺の豪商で、成安は平野の家筋である。 


⑩1679年の千日前辺りの地図では、太左衛門橋(たざえもんばし)から南へ道があり、西側に法善寺、竹林寺が見られる。

この辺りは、非人界隈になり、道を隔て、東南に聖(ひじり)の六房(ろくぼう)があった。

そして、道の突き当たりが火屋となっている。

火屋の南は難波村の畑になっているから、それが、大坂の外れであり、場末になる。

1806年の地図では、既に道の両側に新町が開発されているが、千日前自体は、火葬場があり、聖の六房や非人の集落があり、さらに、千日墓や刑場も記されている。

千日前の由来は、法善寺が千日念仏を勤めたことによると言う説と、聖の六房の本寺である千日山安楽寺から名付けられたと言われている。


⑪大坂は水の都と言われ、市内には大川をはじめ、東西横堀、道頓堀など、多くの水路がめぐらされていた。

だが、場所によっては、水質が悪く、飲料水に困っていた。

大坂では、水を売って歩く水屋がいた。


⑫近松門左衛門の『心中天網島(しんじゅう てんのあみじま)』では、堂島新地より網島大長寺へ向かう遊女小春・紙屋治兵衛の死出への道行が、名残の橋づくしとなっている。

天神橋を初めに、次いで、堂島新地と曾根崎新地の両新地の間を流れる蜆(しじみ)川に掛かる梅田橋から始まって、緑橋、桜橋、蜆橋、大江橋、難波小橋、舟入橋、天満橋、京橋と、二人の辿った道順に沿って、橋の名称が挙げられている。 


⑬大坂は商人の町と言われているが、同時に職人の町でもあった。

京都の工芸品ではなく、大衆品作りが中心だった。

問屋が職人を組織し、問屋制家内工業となっていたため、職人が商家の下風に立つという気風があった。

大坂の経済基盤を支えたのは、多くの職人たちだった。

かっては、船場でも、多数の職人が借家に暮らして、物作りに励んでいた。


⑭近世での輸出品は、当初、金銀だったが、その後は、銅が輸出の中心になる。

その高度な製錬技術を、大坂の職人が持っていた。

掘り出した銅鉱石は、大坂に運ばれて製錬される。

これが、大坂経済の基盤になっていた。

重量のある銅を運搬するにも、水運の発展した大坂が便利だった。

この銅を中心に取り扱って、財を成したのが和泉屋住友、今の住友グループの前身である。

職人を抱える銅吹き屋は、船場島乃内の周辺部に集まっていた。


⑮近世の大坂では、家持ちは一人前の市民権を持った町人身分だが、借家住まいは奉行所へ出頭する際にも、家持ちの家主が付き添う必要があった。

家持ちでなければ町人社会でも一人前に扱われなかった。

家を購入するのは、正式に町人となる意味も含んでいた。 


⑯大坂の商人を痛めつけたのは、幕府の御用金と、それに習った薩摩、長州などの諸藩の借金踏み倒しだろう。

幕末の雄藩は、これを討幕の資金に回した。

薩長政府は、大坂にとって天敵かも知れない。


⑰天保山は、天保の時世、安治(あじ)川の底を浚渫した泥で出来た。 


⑱井原西鶴の『日本永代蔵』の言う、町人の人生設計。

「人は十三歳までは弁えなく、それより二十四、五までは親の指図を受け、その後は、我と世を稼ぎ、四十五までに一生の家を固め、遊楽することに極まれり」

中世では、このような生涯に対する見通しは持ちようがなかった。

「朝(あした)には紅顔ありて 夕べには白骨となる」と言う無常観が人生を支配していた。 


⑳大坂商人の生活は、質素で、人目に立つような派手な服装や遊興は家を滅ぼすものとされた。

この背景には、1706年の淀屋の闕所(けっしょ)【財産没収】がある。

淀屋二代目の淀屋善右衛門。

大坂の他の著名な豪商 鴻池善右衛門、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛、加島屋久右衛門……など。

いやあ、おじさん、覚書にしておきたい箇所はいくらでもある。

こういったことから、筆者は、大阪の商人気質(かたぎ)として、特にそれは船場に代表される上中層の町人に鮮明に見られると言うが、経験的合理主義、無神論、非政治性や地味で質素な生活態度、さらに、ある種の個人主義に根ざした多様性の認識と大局観を挙げている。

翻って、おじさんの大阪でのルーツを辿ってみると、わずか、母系の祖父母程度までしか明確に遡れない。

祖父は船場の繊維問屋に奉公していたらしい。

同時に、奈良の竜田から出てきて、子守女中をしていた祖母と出会い、結婚し、船場にメリヤス問屋を営んだ。

当初は、結構、羽振りが良かったらしいが、戦争で一気に家産が傾き、戦後は、農地改革で僅かにあった不動産も無くし、今里近くで小さな食糧店を営むことになる。

祖父は羽振りが良かった頃の暮らしが身について、結構な遊び人だったそうだ。

商売の方は祖母に任せきりだったと言う。

だから、母親は戦前の子供時代は、船場界隈で育ち、その後、復員してきた父親と結婚し、親の資金で玉造の商店街に洋裁店を開いた。

まあ、そこでおじさんが生れ落ちるわけだ。エヘヘ!

それから、おじさん、結婚して南河内に移るまで、ほぼ30年間を玉造の下町で過ごした。

いやはや、大阪市内でのルーツを探ってみると、その関わりは、ほんの3世代でしかない。

にも拘わらず、どこかおじさんのものの考え方の根底には、上記の大坂人の町人気質の特徴を身に備えているような気がしてならない。

改めて、おじさん、大坂人であることを自覚した一冊だった。

  【ルーツを探す本の旅】

  ※ヤフーブログにて 2018年10月30日 アップ

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