落語界を才能で駆け抜けた風雲児 『CD/立川談志 ひとり会落語CD全集』より ☆に関係なし

『CD/立川談志 ひとり会落語CD全集』


いやあ、さすがに立川談志さん、落語は恐ろしく上手い。

とにかく、天才肌と言うのだろう。

新しい落語の流派を創設したのも無理はない。

確かに、談志流の独自の新しい落語のスタイルを確立している。

まさに、家元だ。

ところで、音楽のクラシック・ピアノ界に、グレン・グールドと言うピアニストがいる。

彼は、モーツアルトの楽曲を、新しい解釈で、とてつもない速いテンポで演奏してみせた。

そうして、全く印象の違ったモーツアルトの世界を創出してしまったのだ。

おじさん、何となく、音楽と落語では、芸術領域は異なるが、談志さんの落語を聴いていると、このグレン・グールドを思い出して仕方がない。

ご存知の通り、談志さんの落語も、恐ろしくテンポが速い。

掴みの部分は、ボソボソと小声で聴こえにくい程に、誠にゆっくり話し始めるのだが、一転、落語の本題に入るやいなや、一気に、威勢良く、テンポが上がってくる。

ウカウカ聴いていると、頭がついて行けなくて、聴き逃してしまうほどだ。

まあ、これは、話しの始まりの小さな聴き取りにくい声も、本来の落語のスピード感も、談志さんならではの、お客さんを話しに引き入れる、したたかな計算かも知れない。

おじさんたちは、否応なく談志さんの話しに耳をそばだてざる得ないのだ。

考え事をしていては、談志さんの話しは聴けない。

仮に、寝不足でも、居眠りどころではないのだ。

しかしながら、話しのテンポが速いと言って、それは、芸の質を曖昧にする誤魔化しではない。

仮に、談志さんの話しをテープに録音し、ゆっくりとしたペースで再生すれば、どうなるだろうか? 

きっと、語り口の明瞭な、端正な落語として聴けるに違いない。

実は、おじさん、実際に、今回の『立川談志 ひとり会落語CD全集』の一枚を、再生スピードの変えることのできるCDプレイヤーで再生してみた。

実験だ。

で、結果だが、実際、想像通りになった。

いやはや、再生スピードを上げると、たちまち、落語の話しの筋が追えなくなった。

談志さんの話しのテンポは、お客さんが、何とかついて行けるギリギリの速さだということができる。

一方、スピードを落として聴くと、名人芸の落語として再生されたのである。

まさに、これは、グレン・グールドのピアノ演奏と同様、古典落語の世界を、新しい解釈で、談志流に、いいや、家元立川流に再構築したと言って良いだろう。

今風に言えば、古典落語のニューウェーブ、新境地を開いたことになる。

だから、この人に、従来の落語の延長線上で、名人だとか、そうでないとか言っても仕方がないのだ。

この人の落語は、そうした古典落語の枠を飛び出した、新しい境地の落語だと言って良いだろう。

よく、桂文楽さん、三遊亭圓生さん、古今亭志ん生さんを引き継ぐ新世代の江戸前落語の四天王として、この立川談志(五代目)さん、古今亭志ん朝(三代目)さん、三遊亭圓楽(五代目)さん、橘屋圓蔵(六代目)さんが挙げられるが、この立川談志さんだけは、どこか寄って立っている世界が違うような気がしてならない。

従来の落語の枠にハマらないのだ。

いやあ、立川談志さんが、生涯、ライバルの落語家として意識したのは、古今亭志ん朝さんだ。

志ん朝さんは、名人 古今亭志ん生さんの息子で、いわば落語界のサラブレットと言える。

高校を中退して、師匠 柳家小さんに弟子入りし、懸命にその才能一つで、真打に駆け上ってきた談志さんとは、育ってきた土壌が違っている。

一歩一歩、その技量だけで、真打の階段を登って行かなければならなかった。

そんな談志さんに対して、36段飛ばしで、真打の座に飛び上がった志ん朝さんは、見ていて悔しい存在であったに違いない。

と言って、志ん朝さんのトントン拍子の出世も、これは、親の七光りと言うのではない。

やはり、志ん朝さんの持って生まれた落語の素質が素晴らしかった。

まるで、落語を演じるために生まれてきた申し子のようだった。

彼は、その天賦の才を活かし、アッという間に、若いながらも名人の域に達してしまったのだ。

彼の芸は、本格的な落語の王道を踏まえていた。

だから、師匠たちにも文句の付けようのない正統派の落語の騎手と言える。

いやまあ、談志さんの場合は、そうは行かない。

談志さんは、自らの才能を駆使して、これまでにない自分なりの解釈と工夫を加えた新感覚の落語を完成させる必要があったのだ。

とにもかくにも、立川流の家元になったのだから、それは、やり遂げたということになるだろう。

しかし、談志さんは、いつも志ん朝さんが気になって仕方がなかった。

視野の片隅には、常に古今亭志ん朝さんの姿があったに違いない。

そのライバル意識が、おじさん、例の三遊亭圓生一門の落語家協会からの脱会騒動、師匠小さんとの意見対立による破門など、談志さんの暗闘?に繋がったのではないだろうか?

その真相は明らかではないが、談志さんの持つ割り切れない反体制的な思いが、何らかの引き金になったことは間違いないだろう。

いずれにしても、既存の有り方に安住することのできない人だった。

だから、敵も多かったに違いない。

しかし、敢えて言うなら、あからさまに、体制に対して敵愾心を持つことが、談志さんの落語の新しい境地を切り拓いていくパワーに繋がったことも確かだろう。

よく桂文楽さんは、時々、落語界に「お化け」が出なければならないと言ったそうだ。

自らの落語のように、まるで落語のお手本のような正統派の落語を目指し、名人になるのも良い。

しかし、一方では、それらの定席的な落語ではなく、型破りの落語を演じる人物も登場して良いということだ。

その方が、落語界全体を活性化する。

どうも、桂文楽さんは、昭和の爆笑王の林家三平さんの事を指して、「お化け」と称したらしい。

確かに、彼の型破りな芸風は、「お化け」と呼ぶには相応しいだろう。

しかし、おじさんなどに言わせれば、余程、この立川談志さんの方が、落語界にクーデターを引き起こしかねない「お化け」だと思えて仕方がない。

何故なら、落語の演じ方ではなく、落語そのものの本質を変えてしまいかねないからだ。

いやはや、どうだろうか? 

まあ、それはさておき、談志さんの落語について話しを戻さなければならない。

おじさん、この人の芸の持ち味は、その多芸多才さにあると思う。

様々な落語のネタを演じることができると言うだけでなく、とにかく器用なのだ。

通常、落語家の隠し芸と言えば、舞踊や小唄、義太夫、歌舞伎芝居、鳴り物、川柳などが、その主なものだ。

つまり、落語を演じる上で、少なくとも、齧っておかなければ落語に深みが出ないと言うような芸事ばかりである。

もちろん、立川談志さんも、この辺のことは、一通り習得していることだろう。

以外に、談志さんは、講談や漫談、漫才、文才にまで秀でている。

漫談などは、赤シャツにジーンズ姿で、日劇に出演していたほどだ。

おまけに、政治まで芸の肥やしにしてしまった。

エヘヘ! 

これら多彩な芸や活動は、いやまあ、間違いなく、談志さんの落語に、従来の落語にない新しい感性を与えていると思う。

ところで、おじさん、今回、この『立川談志 ひとり会落語CD全集』で、立て続けに、さて、何十題聴いただろうか? 

一ヶ月程、談志三昧の夜のひと時を過ごした。

あまり、談志さんを好きではないおじさんが、聴き続けたのは、「どうして、立川談志さんの落語が面白くないか?」について、その理由を見い出したかったのだ。

常々、おじさん、思っているのだが、落語が上手い事と、落語の名人であるという事は、また、次元の違う問題だということだ。

同時に、落語が上手いと言う事と、面白いという事も同じではないようだ。

もちろん、ある程度は相関しているだろうが、必ずしも一致しない。

むろん、人気があるという事も違う。

おじさん、今回、立て続けに談志さんのCDを聴きながら、落語話しもさることながら、ひとり会の観客の笑いの分量について、気にかけて耳をそばだてていた。

どうも、東京の落語の観客が、大阪に比べて、落語を芸術として聴く傾向が強いから、笑いの分量が控えめなのは分る。

それでも、おじさんが聴いていても、それ程面白くないのだ。

どうも、徐々に盛り上がって大爆笑とまで行かない。

テンポが速いから? 

それもあるだろう。

お客さんが、ゆっくり笑ってもおれない。

しかし、そうしたことを差し引いても、やはり、笑いの絶対的な分量が少ないと思うのだ。

いやまあ、ライバルの古今亭志ん朝さんに比べると、とにかく、圧倒的に笑いの分量が少ない。

笑い声が限定的なのだ。

おじさんなど、志ん朝さんの話しを聴いていると、それがCDであることも忘れて、何度も、にんまりして、時には、思わず声をあげて一人笑いすることがある。

とにかく、そばで見ている人がいたら、気味悪いものだろう。

ところが、談志さんの場合は、にんまりしかけることもあるのだが、腹の底から笑えないのである。

これはどうしたことだろう。

こんなに文句のつけようのない巧みな落語なのに…。

この辺りに、談志さんの志ん朝さんへのライバル意識、いやあ、あるいは、嫉妬にも似た感情が生まれる理由があるのかも知れない。

おじさん、結局、落語は話しの巧拙は別として、その本質は、語る人間の滲み出してくる人柄が大切だと思う。

姿形、顔つきも含めてだ。

人柄と言うのは、やはり、「情」に裏打ちされているのだ。

そして、それは、落語の芸の究極の本質だと思う。

落語は、おじさんの持論だが、「情」の芸なのである。

やはり、この天才落語家の、とてつもなく上手過ぎる芸には、おじさん、生意気なようだが、その人柄が足を引っ張っているように思えてならない。

おじさんは、CDを聴きながら、今回、「さすが!上手い!」を連発しながらも、やっぱり、談志さんの落語が好きにはなれなかった。

究極、落語も人柄に尽きるのだ。

まあ、談志さんの場合、才能が有り過ぎるのだ。

芸人にとって、もちろん、才能は必要条件だ。

しかし、人柄が滲み出てこなければ、それは、嫌味になり、必要十分条件とはなり得ない。

いやあ、おじさん、立川談志さんは、落語界を才能で駆け抜けた風雲児のように思えて仕方がない。

まるで、才能が、着物と羽織を着て高座に上がったような「お化け」だと思う。

だから、笑いに、何となく、「怖気(おどけ)」があるのかも知れない。

おあとがよろしいようで…。

  ※ヤフーブログにて 2015年2月10日 アップ

  

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