落語は、落語家によって生きてくる 『幕末時そば伝』より ☆☆
『幕末時そば伝』 著者 鯨 統一郎
いやあ、この小説は、どう評価して良いのやら…。
基本的には、タイトルでも分るように、落語を下敷きにした小説なのだが、これでは、落語そのままなのだ。
結構、落語をスパイスにしたミステリー小説は多い。
この古本屋でも幾つか紹介したことがある。
ところが、全て、例えば、落語家が俄か探偵になって謎説きに取り組むとか、一応、落語のストーリーをなぞってはいるが、それを完全に消化して独自の世界を創出するとか、それなりに苦労してアプローチしている。
取りあえず、どんな作品でも、落語は状況設定や謎解きの道具に止まっているのだ。
しかしながら、この小説では、確信犯なのかそうでないのか、落語の典型的なおとぼけコンビである八 っつぁんと熊さんが登場して、よく知られた落語の代表作『粗忽(そこつ)長屋』、『ちはやぶる』、『湯屋番』、『長屋の花見』、『まんじゅうこわい』、『道具屋』、『目黒のさんま』、『時そば』などに、若干手を加えた程度で、落語そのままを抜き書きしてアレンジしているに過ぎないのだ。
とにかく、有名落語をこれだけ集めて、あらすじを語るだけで、一冊位の本は出来てしまうのだ。
いやもう、何の捻りも何もない。
オチもそのまま、活字に置き換えているだけなのだ。
おまけに、何らかのミステリーの仕掛けがあるかと言えば、歴史の教科書に出てくるような出来事を繋げて、ホント、無理やりと言うか、強引と言うか、毒にもならない解釈をこじつけているだけなのである。
いやはや、これは、新しい落語パロディを開拓するミステリーなのか?
一瞬、そう思いもしたが、やはり、読者を小バカにしているような感がある。
いやもう、この作品は、筆者のミステリーパロディに対する、とてつもない挑戦なのか?
それとも、書き始めて、当初の小説的意図が破綻し、引っ込みがつかなくなって、開き直った駄作なのか、判断できない。
とにもかくにも、まさに、落語のような本である。
おじさんの理解を遠く超えている。
新タイプのエンタメ・パロディ落語ミステリーと言うのなら、もはや、何も言うことはない。
と言うことで、この本については、これくらいにして、落語について話しをしよう。
実は、これ以上、書きようがないのだ。
まさに、この本は、前述の如く、いみじくも、落語そのままを活字にしたような本なのだが、実際に、古今東西の落語を、学究的立場から集大成した本がある。
落語全集とかタイトルづけられた、大抵の場合、何冊かに分かれた分厚い本だ。
ご存じの方も多いだろう。
幾種類か出ている。
これは、パロディでも何でもなく、おじさんも、落語を聴いて、後から不明な所を、こうした本で確認したりしている。
まあ、「辞典」的な本だ。
この古本屋にも、数冊取り揃えている。
いやまあ、おじさんが、これらの本を取り揃えたのは、最初、辞典的に使用するというのではなかった。
あくまでも、一度、落語を活字で読んでみたいと言う、読み物としての興味だ。
いやその、結論から言えば、読んでも少しも面白くなかった。
おじさんも、落語をそれなりに聴いているから、ストーリー展開や、最後にくるオチが分かってしまっているからかも知れない。
ところで、実際に落語を聴けば、演者が変われば、同じ落語話しでも、まるで、新たな話しであるかのように、新鮮に感じることができる。
いや、同じ演者でも、聴く時や、聴く場所が変われば、落語話しは、全く別な生き物のように、おじさんの目と耳に飛び込んでくる。
いやはや、落語は、まさに「生き物」なのだ。
落語を活字に置き換えても、上質の笑い話しにはならないのだ。
確かに、優れた落語の演目は、時代を経て、作家や多くの名人たちが、練りに練って作りあげられたものだろう。
それだけに、選りすぐられた、非常に秀逸な話しだけが現在にまで生き残ってきていると思われる。
おじさんなどは、随分、落語から、人生とは何たるかを教えられてきた。
それでも、活字になったら、落語話しはつまらないし、面白くもないのだ。
やはり、落語家が、それに命を吹き込まなければ、イキイキとした「生き物」として躍動してこない。
逆に言えば、いろんな形で、落語家自身のこれまでの人生の喜怒哀楽を、自在に吹き込むことができる話しが優れた演目と言えるだろう。
まあ、それも、落語家の個性や技量によるから、一概には言えないが…。
とにかく、落語家と落語話しが不二一体になった時に、共に生きてくるものなのだろう。
そこに、名人の十八番(オハコ)が生れるのだ。
この小説のタイトルになっている『時そば』という演目は、亡くなった人間国宝五代目柳家小さんさんが得意とした演目だ。
確かに、あの人の良さそうなトボケた風貌があってこそ、『時そば』と言う話しの何とも言えない味とシズル感が生まれてくるのだ。
柳家小さんさんは、日本一旨そうにそばを食べる人として称されていた。
この人ならではの、この話しなのである。
落語話しは、落語家に息を吹き込まれてこそ、「生き物」になるのだ。
だから、落語をパロディるなどというのは、所詮無理があるし、誰も期待していないのだ。
さて、大阪では、江戸前落語の『時そば』は、『時うどん』として演じられる。
そばが、上方に来れば、うどんに変わるのだ。
まあ、関東がそばの食文化圏、関西がうどんの食文化圏ということで、こうなったのだろう。
さらに、演じられる話しの設定も若干違ってくる。
『時そば』については、よく知られた落語だから、今さら説明するまでもないと思う。
客が、十六文のそばを、「一つ、二つ、三つ、四つ、今、何時(なんどき)だ!」と合いの手を入れられて、お足(代金)を誤魔化そうとする話しだ。
話しは、二段構えになっており、最初は、代金の支払いの時に、一つ上の時刻を聞き、一文得をし、その後、同じことをしたボケ役の方が、数の多い時刻にそばを食べに行って、逆に四文増えて、二十文も支払ってしまうというオチで終わる話しである。
もっとも、最近では、この江戸時代の時間の表示法、「今、何時(なんどき)!」という時間の数え方にも、馴染みが薄くなってきている。
上方落語の桂枝雀さんも、二段構えの時間の経過を、どう客に感じさせるかも含め、演じるに当たり、話しの前振りなどにより、江戸時代の時間の数え方を説明するなど、かなり工夫していた。
テレビで、時代劇のドラマが少なくなってしまうと共に、この落語も、ますます演じにくくなっていくのだろう。
ところで、この落語話しも、江戸前落語と上方落語では、若干異なる。
江戸前落語では、代金を誤魔化すのを見ていた男が、次の日に、自分でやってみるという話しになっている。
一方、上方落語では、まず、ボケ役と突っ込み役が、二人でうどんを食べに行く。
利口な方が、割り前にしているのにもかかわらず、何やかんやと言って、一杯のうどんの全てを食べてしまう。
その悔しさから、ボケ役の方が翌日一人で出かけていき、失敗をしてしまうという話しになる。
江戸前落語の方は、そば屋のオヤジと客のやり取りの方に重点があり、上方落語の方は、どちらかと言えば、ボケと突っ込みのやりとりに重点があるようだ。
いつもながら、上方では、余計にボケの面白みが強調される。
さて、江戸前落語にも、うどんを取り扱った落語話しがある。
おじさん、この話しは、あまり上方では聞いたことがなかった。
ある時、大阪天神橋にある寄席の常席 繁盛亭で、桂梅団治さんの独演会に行った時のことである。
東京から来援した落語家が演じていたのだ。
申し訳ないが、落語家の名前は失念してしまった。
随分、ヤセギスの落語家だなあと言う印象が残っている。
まあ、それは良い。
その演目は『ひょっとこうどん』という話しだった。
おじさんは、東京のうどんのお品書きをよく知らないのだが、どうも「ひょっとこうどん」と言うのは、うどんの上に、鳴門蒲鉾や海苔やらの具を載せ、ひょっとこの顔のように盛り付けるうどんのことを言うらしい。
まあ、話しとしては、うどん屋に来たお客が、かけうどんを注文し、そのうどん汁に、自分の顔の造作を写し込み「ひょっとこうどん」にして食べるという話しであったと記憶している。
確か、おじさん、そうだったと思うが、細部については忘れてしまって自信がない。
落語全集にフィードバックする時間がないので申し訳ない。
いやはや、おじさん、何を言いたかったかと言えば、まさに、この小説は、『ひょっとこうどん』の落語話しのようなもの。
一生懸命にかけうどん(素うどん)の汁(つゆ)に、顔の造作を写すのと同様に、落語を活字として本に写しこんでも、落語のように面白そうに見えるだけで、ちっとも、落語の味がしないし、小説自体も面白くはならないと言うことである。
おあとがよろしいようで…。
※ヤフーブログにて 2013年8月4日 アップ
いやあ、この小説は、どう評価して良いのやら…。
基本的には、タイトルでも分るように、落語を下敷きにした小説なのだが、これでは、落語そのままなのだ。
結構、落語をスパイスにしたミステリー小説は多い。
この古本屋でも幾つか紹介したことがある。
ところが、全て、例えば、落語家が俄か探偵になって謎説きに取り組むとか、一応、落語のストーリーをなぞってはいるが、それを完全に消化して独自の世界を創出するとか、それなりに苦労してアプローチしている。
取りあえず、どんな作品でも、落語は状況設定や謎解きの道具に止まっているのだ。
しかしながら、この小説では、確信犯なのかそうでないのか、落語の典型的なおとぼけコンビである八 っつぁんと熊さんが登場して、よく知られた落語の代表作『粗忽(そこつ)長屋』、『ちはやぶる』、『湯屋番』、『長屋の花見』、『まんじゅうこわい』、『道具屋』、『目黒のさんま』、『時そば』などに、若干手を加えた程度で、落語そのままを抜き書きしてアレンジしているに過ぎないのだ。
とにかく、有名落語をこれだけ集めて、あらすじを語るだけで、一冊位の本は出来てしまうのだ。
いやもう、何の捻りも何もない。
オチもそのまま、活字に置き換えているだけなのだ。
おまけに、何らかのミステリーの仕掛けがあるかと言えば、歴史の教科書に出てくるような出来事を繋げて、ホント、無理やりと言うか、強引と言うか、毒にもならない解釈をこじつけているだけなのである。
いやはや、これは、新しい落語パロディを開拓するミステリーなのか?
一瞬、そう思いもしたが、やはり、読者を小バカにしているような感がある。
いやもう、この作品は、筆者のミステリーパロディに対する、とてつもない挑戦なのか?
それとも、書き始めて、当初の小説的意図が破綻し、引っ込みがつかなくなって、開き直った駄作なのか、判断できない。
とにもかくにも、まさに、落語のような本である。
おじさんの理解を遠く超えている。
新タイプのエンタメ・パロディ落語ミステリーと言うのなら、もはや、何も言うことはない。
と言うことで、この本については、これくらいにして、落語について話しをしよう。
実は、これ以上、書きようがないのだ。
まさに、この本は、前述の如く、いみじくも、落語そのままを活字にしたような本なのだが、実際に、古今東西の落語を、学究的立場から集大成した本がある。
落語全集とかタイトルづけられた、大抵の場合、何冊かに分かれた分厚い本だ。
ご存じの方も多いだろう。
幾種類か出ている。
これは、パロディでも何でもなく、おじさんも、落語を聴いて、後から不明な所を、こうした本で確認したりしている。
まあ、「辞典」的な本だ。
この古本屋にも、数冊取り揃えている。
いやまあ、おじさんが、これらの本を取り揃えたのは、最初、辞典的に使用するというのではなかった。
あくまでも、一度、落語を活字で読んでみたいと言う、読み物としての興味だ。
いやその、結論から言えば、読んでも少しも面白くなかった。
おじさんも、落語をそれなりに聴いているから、ストーリー展開や、最後にくるオチが分かってしまっているからかも知れない。
ところで、実際に落語を聴けば、演者が変われば、同じ落語話しでも、まるで、新たな話しであるかのように、新鮮に感じることができる。
いや、同じ演者でも、聴く時や、聴く場所が変われば、落語話しは、全く別な生き物のように、おじさんの目と耳に飛び込んでくる。
いやはや、落語は、まさに「生き物」なのだ。
落語を活字に置き換えても、上質の笑い話しにはならないのだ。
確かに、優れた落語の演目は、時代を経て、作家や多くの名人たちが、練りに練って作りあげられたものだろう。
それだけに、選りすぐられた、非常に秀逸な話しだけが現在にまで生き残ってきていると思われる。
おじさんなどは、随分、落語から、人生とは何たるかを教えられてきた。
それでも、活字になったら、落語話しはつまらないし、面白くもないのだ。
やはり、落語家が、それに命を吹き込まなければ、イキイキとした「生き物」として躍動してこない。
逆に言えば、いろんな形で、落語家自身のこれまでの人生の喜怒哀楽を、自在に吹き込むことができる話しが優れた演目と言えるだろう。
まあ、それも、落語家の個性や技量によるから、一概には言えないが…。
とにかく、落語家と落語話しが不二一体になった時に、共に生きてくるものなのだろう。
そこに、名人の十八番(オハコ)が生れるのだ。
この小説のタイトルになっている『時そば』という演目は、亡くなった人間国宝五代目柳家小さんさんが得意とした演目だ。
確かに、あの人の良さそうなトボケた風貌があってこそ、『時そば』と言う話しの何とも言えない味とシズル感が生まれてくるのだ。
柳家小さんさんは、日本一旨そうにそばを食べる人として称されていた。
この人ならではの、この話しなのである。
落語話しは、落語家に息を吹き込まれてこそ、「生き物」になるのだ。
だから、落語をパロディるなどというのは、所詮無理があるし、誰も期待していないのだ。
さて、大阪では、江戸前落語の『時そば』は、『時うどん』として演じられる。
そばが、上方に来れば、うどんに変わるのだ。
まあ、関東がそばの食文化圏、関西がうどんの食文化圏ということで、こうなったのだろう。
さらに、演じられる話しの設定も若干違ってくる。
『時そば』については、よく知られた落語だから、今さら説明するまでもないと思う。
客が、十六文のそばを、「一つ、二つ、三つ、四つ、今、何時(なんどき)だ!」と合いの手を入れられて、お足(代金)を誤魔化そうとする話しだ。
話しは、二段構えになっており、最初は、代金の支払いの時に、一つ上の時刻を聞き、一文得をし、その後、同じことをしたボケ役の方が、数の多い時刻にそばを食べに行って、逆に四文増えて、二十文も支払ってしまうというオチで終わる話しである。
もっとも、最近では、この江戸時代の時間の表示法、「今、何時(なんどき)!」という時間の数え方にも、馴染みが薄くなってきている。
上方落語の桂枝雀さんも、二段構えの時間の経過を、どう客に感じさせるかも含め、演じるに当たり、話しの前振りなどにより、江戸時代の時間の数え方を説明するなど、かなり工夫していた。
テレビで、時代劇のドラマが少なくなってしまうと共に、この落語も、ますます演じにくくなっていくのだろう。
ところで、この落語話しも、江戸前落語と上方落語では、若干異なる。
江戸前落語では、代金を誤魔化すのを見ていた男が、次の日に、自分でやってみるという話しになっている。
一方、上方落語では、まず、ボケ役と突っ込み役が、二人でうどんを食べに行く。
利口な方が、割り前にしているのにもかかわらず、何やかんやと言って、一杯のうどんの全てを食べてしまう。
その悔しさから、ボケ役の方が翌日一人で出かけていき、失敗をしてしまうという話しになる。
江戸前落語の方は、そば屋のオヤジと客のやり取りの方に重点があり、上方落語の方は、どちらかと言えば、ボケと突っ込みのやりとりに重点があるようだ。
いつもながら、上方では、余計にボケの面白みが強調される。
さて、江戸前落語にも、うどんを取り扱った落語話しがある。
おじさん、この話しは、あまり上方では聞いたことがなかった。
ある時、大阪天神橋にある寄席の常席 繁盛亭で、桂梅団治さんの独演会に行った時のことである。
東京から来援した落語家が演じていたのだ。
申し訳ないが、落語家の名前は失念してしまった。
随分、ヤセギスの落語家だなあと言う印象が残っている。
まあ、それは良い。
その演目は『ひょっとこうどん』という話しだった。
おじさんは、東京のうどんのお品書きをよく知らないのだが、どうも「ひょっとこうどん」と言うのは、うどんの上に、鳴門蒲鉾や海苔やらの具を載せ、ひょっとこの顔のように盛り付けるうどんのことを言うらしい。
まあ、話しとしては、うどん屋に来たお客が、かけうどんを注文し、そのうどん汁に、自分の顔の造作を写し込み「ひょっとこうどん」にして食べるという話しであったと記憶している。
確か、おじさん、そうだったと思うが、細部については忘れてしまって自信がない。
落語全集にフィードバックする時間がないので申し訳ない。
いやはや、おじさん、何を言いたかったかと言えば、まさに、この小説は、『ひょっとこうどん』の落語話しのようなもの。
一生懸命にかけうどん(素うどん)の汁(つゆ)に、顔の造作を写すのと同様に、落語を活字として本に写しこんでも、落語のように面白そうに見えるだけで、ちっとも、落語の味がしないし、小説自体も面白くはならないと言うことである。
おあとがよろしいようで…。
※ヤフーブログにて 2013年8月4日 アップ
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