坊っちゃんに、自分を重ねた漱石 『夏目漱石を江戸から読む』より ☆☆☆

『夏目漱石を江戸から読む』(新しい女と古い男) 著者 小谷野 敦


漱石論は多いが、この本は、かなりユニークな部類に属するものだろう。

とは言え、浮わついた、いい加減なものではない。

おじさん、随分、なるほど、なるほどと納得させられた。

ところで、日本の文壇の中で、漱石さんほど、特異な位置を占める作家はいないだろう。

まあ、おじさんから言えば、文壇の「孤高の人」と言う感じだ。

どうして、そんな印象を受けるのだろうか?

漱石さんの頃の日本の文壇と言えば、圧倒的に自然派と言うのだろうか、物事をありのままに写生した作品や、自らの内面生活を吐き出すと言ったような私小説めいたものが多かったように思う。

これは、日本文学のある種の特徴だろうか。

おじさんなど、ホント、こうした作品が次から次に登場してくる学生時代の国語の教科書は、随分、味気なかったように思う。

正直、いくら「文章の神様」などと言われても、志賀直哉さんの作品などは、起伏がなくって、欠伸(あくび)を催すものだった。

失礼! 

まあ、私小説の方も、あまりにも女々しい感じがして、読むのが面倒だった。

ホント、退屈極まりなかったのだ。

ところが、どうも、夏目漱石さんだけは違っていたようだ。

いささか難解な文章もあったのだが、判らないところはそのまま打っちゃって、結構読んでいたと思う。

さすが、英国仕込み。無意識に、これは、本来の意味で正真正銘の小説=フィクションだと確信していたのだ。

と言うことは、同時代人のそれは、まだまだ、小説と言うより私文書と言った感じで、生意気を言えば、海外の作品から見れば、本格的な小説には遠いものだと感じていたのだろう。

これは、おじさんの当時の率直な実感である。

それに、漱石さんの訳知りで、何となく、とぼけた味のある分別臭さが、おじさん、好きだった。

どこか冷めていてシニカル、それでは、何事にも傍観者でいれば良いのだが、そうもいかない。

何となく、よせばいいのに、「人生はこんなもんだ!」と、チョコチョコと、要らぬお世話の人生哲学を披露する。

それは、いたずら心と言うには、もう少し情熱的で深刻なのだ。

おじさん、この肌合いがたまらないのである。

村上春樹さんの小説『海辺のカフカ』で、父親を殺害した少年が、辿りついた香川県の図書館で、懸命に漱石作品をむさぼるように読んでいたのが理解できるような気がする。

心が彷徨っている時、漱石さんの乾いた個人主義と言おうか、その社会との距離感が、心地良いような気がするのだ。

本書を読みながら、おじさんが漱石さんに持っていた得体の知れない魅力について、いくらかは解き明かしてくれたような思いに捉われた。

久しぶりに、サイダーのゲップのような胸のすく文芸評論を読んだ気がする。

まあ、いささかゲップが出過ぎたきらいもあるが…。

何となく、この評論、漱石さんの物言いに近い、啖呵を切るような言い回しが面白いのだ。

漱石さんを読み過ぎて、似てきてしまったのだろうか? 

ガハハ! 

さて、本書は、夏目漱石さんの7つの作品、つまり、『坊ちゃん』、『虞美人草』、『三四郎』、『こころ』、『それから』、『行人』、『明暗』を取り上げ、詳細な分析をしている。

その分析視点は非常に多様だが、主に江戸時代の社会背景から、漱石さんの生きた時代、明治維新以降の時代へ繋がる社会的な思想・文化・風俗・文学に着目し、類を見ないユニークなものとなっている。

もちろん、夏目漱石さんは、維新から明治の時代の申し子だから、江戸時代の社会背景、色濃く体現していることは言うまでもないだろう。

例えば、『坊ちゃん』である。

一見、痛快学園物語とも読めるが、実は、著者は、明治維新の社会的な世相を映し込んだ暗闘の物語だと捉えている。

一般的に、主人公の坊ちゃんの気質は、典型的な江戸っ子気質だと言われている。

坊ちゃんのベランメェ口調が、江戸っ子の典型を思わせるのだろう。

ところが、著者は、江戸っ子の源流を追求し、3種類の江戸っ子パターンがあるとしている。

1つは、まさに江戸の町人文化を反映した江戸っ子ぶりだ。

これは、多分に番幡随院 長兵衛(はんずいいん ちょうべい)のような、少々、短期で荒っぽいが、義理人情に厚く、正義の味方、見栄っ張りで、宵越しの金は持たないと言うような任侠的気質を言うのだろう。

江戸前落語の『三方一両損』に登場してくるような人物たちだ。

2つ目は、江戸幕府の御家人が、野に下って平民になってしまったと言う江戸っ子気質だ。

いささか厳格で、気難しい、が筋は通す。

お金はないが、金使いは綺麗と言う傾向が見られる。

最後は、幕末の時に、幕府側に付いて憂き目を見た砂漠崩れの江戸っ子気質と言うことになる。

武士だけに、御家人と共通点が多いが、戊辰戦争でひどい目に合った分だけ、明治政府に対する批判精神が強い。

まあ、反体制的な姿勢が強くなる。

どうも、漱石さん自身は、『坊ちゃん』で、主人公の坊ちゃんに、氏素性を清和源氏の子孫だと語らせているが、実は、幕府に味方した東国諸藩のいずれかの譜代大名の家系を意識しているのではないかと思われる。

となれば、主人公の坊ちゃんの江戸っ子気質は、佐幕タイプということになるようだ。

ともかく。『坊ちゃん』における学園戦争は、一方は、赤シャツに代表される明治維新勤皇派、他方、山アラシは、新政府に恨みを持つ江戸っ子佐幕派と言うことになるらしい。

こう考えれば、小説の中で、明治初期の世相を反映した代理戦争が繰り広げられると言うことになる。

坊ちゃんは、多分に、後者に共感を持ちながらも、作者の漱石さん同様、持ち前の社会的矛盾に、そっぽを向く個人主義を貫くのである。

まあ、この本では、もっと詳細な七面倒くさい解説がなされているが、概ね、こんな風に読み説かれている。

まあ、これが、著者の言う『夏目漱石を江戸から読む』と言うことなのだろう。

同様の分析が、以降、6つの作品についてなされている。

おじさんにとって、『坊ちゃん』だけでも要約するのは大変だ。

後は、興味を持たれた人は、実際に、本を読んでいただくとする。

おじさんも、夏目漱石さんの作品を、これまで、数冊取り上げてきたが、今後、他の作品をお勧めする機会があれば、この本の解釈にも触れてみたい。

さて、おじさん、最後に、この本が教えてくれた、アッと驚く、大いなる思い違いと言うか、勝手な思い込みについて記しておく。

実は、坊ちゃんが赴任する中学校は、誰もが「松山中学」だと思っているが、本当の所、『坊ちゃん』の作品の中には、いささかも、そんなことは書かれていないのだ。

ただ、「四国辺りの中学校」と書かれているだけだ。

皆、漱石さんが、実際に松山の中学校へ英語教師として赴任していたことを知っているだけに、勝手に思い込んだことである。

実際の所、例えば、香川県高松中学でも良いのだ。

いやはや、勝手な思い込みとは恐ろしいものである。

こんなことを、ばらせば、愛媛県松山市観光に大いに迷惑かもしれない。

一体、坊ちゃん列車は、どうなってしまうのだろうか?

まるで根拠がなくなるのだ。

おじさん、こんな憎まれ口を書いていると、道後温泉の湯の中に、ボッチャンされてしまうかもしれない。

オソマツ!

  ※ヤフーブログにて 2013年2月24日 アップ

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