落語が色褪せない理由 『笑酔亭梅寿謎解噺』より ☆☆
『笑酔亭梅寿謎解噺』(しょうすいてい ばいじゅ なぞときばなし) 著者 田中 啓文
おじさん、前に話したかな、桂枝雀の落語全集を、毎夜、毎夜、聴き続けていたことを。
今は、残念ながら、桂枝雀の全集が終わり、桂南光に移っているが、一話ずつ、大切に聴き続けている。
寝る前のひと時、パッと明るい気分にしてくれる。
桂枝雀の落語だけは、睡眠薬代わりにはならなかった。
むしろ、目が冴えてくるから、ご注意。
ところで、このCDに匹敵するほど面白い落語小説があるのだ。
『笑酔亭梅寿謎解噺』である。
この小説も、一応、一話完結の、オムニバス方式の小説だから、毎夜、毎夜、楽しみに、一話ずつ読み続けることは可能だ。
ただし、全てで8話程度だから、一週間のお楽しみと言うことになる。
話しは、暴走族くずれのヤンキーの兄ちゃんが、頑迷固陋なハチャメチャ落語家に入門するところから始まる。
本人は嫌がっているのだが、周りは非行少年の更生手段と考えているから、入門は無理矢理である。
やがて黄色いトサカ頭(モヒカン刈り)のプータロウ青年は、正式の内弟子となり、修業の日々が始まるのである。
この修業が、常軌を逸している。
稽古は、ホント、虐待に近いのである。
ところが、これは愛のムチ。
実は、彼を厳しく鍛える師匠、兄弟子達は、心暖かい人達?なのだ。
毎日が戦争のような内弟子生活が始まる。
師匠のお世話から、家事手伝い、果ては師匠の孫のお相手まで、馬車馬同然に働かされる。
と言って、一向に稽古をつけてくれる気配もない。
それどころか、機嫌が悪いと、容赦なく、鉄拳が、いや、一升ビンが飛んでくる。
理由なき暴力である。
ところが、ふと見せる愛情らしきもの?に騙される。
嫌々ながら、ズルズル居ついてしまうのである。
そこに、次々とミステリーさながら、謎解き事件が起こってくるのである。
その事件が、有名な落語のネタとオーバーラップして展開していくから面白い。
物語を辿ると同時に、落語の大まかな筋立ての紹介にもなっているのだ。
いやはや、手間の掛かった巧妙な小説だと言える。
同時に、笑いながら、落語家の世界や落語という芸の隅々まで触れてくれるのだから、まことに、お得な小説でもある。
おじさん、感心したのは、落語の本質が、ユーモアの中に見事に語られていることである。
落語は、何故、いつまでも、色褪せずに面白いのか?
古臭いものにならないのか?
今時の漫才と共存できるのか?
その答えが明確に書かれている。
まあ、音楽のクラシックやジャズが、何故、色褪せないのかということにも共通しているかもしれない。
そのココロは、結局、主役は、話の内容もさることながら、演者自身にあると言うことらしい。
やはり、芸というのは、究極、自己表現の手段らしいのだ。
芸とは、その自己表現の巧拙なのだ。
演目に関わりなく、うまい落語家は、時代を越えて、その芸により、むしゃくしゃするような現実を離れて、おじさんたちを暖かい人情の世界に遊ばせてくれるからである。
クラシックもジャズも、その技量により、心地よい精神的世界に、おじさんたちを没入させてくれる。
名人が語る落語の中では、心地よい世界に時が止まっているのだ。
今に生き残った古典落語は、言わば、芸人の自己表現のための、最良のツールかもしれない。
この本では、上方落語の代表的な、それら演目も、同時に紹介してくれる。
落語ファン必読の小説と言えるだろう。
絶妙のオチのある小説と言うべきか。ところで、ここに描かれている落語家の一門、きっと、笑福亭松鶴一門をイメージしているのではないだろうか。
フィクションだが、少なくとも、この笑酔亭梅寿は、まぎれもなく、笑福亭松鶴に違いない。
皆さんは、どう思われるでしょうか?
※ヤフーブログにて 2011年10月17日 アップ
おじさん、前に話したかな、桂枝雀の落語全集を、毎夜、毎夜、聴き続けていたことを。
今は、残念ながら、桂枝雀の全集が終わり、桂南光に移っているが、一話ずつ、大切に聴き続けている。
寝る前のひと時、パッと明るい気分にしてくれる。
桂枝雀の落語だけは、睡眠薬代わりにはならなかった。
むしろ、目が冴えてくるから、ご注意。
ところで、このCDに匹敵するほど面白い落語小説があるのだ。
『笑酔亭梅寿謎解噺』である。
この小説も、一応、一話完結の、オムニバス方式の小説だから、毎夜、毎夜、楽しみに、一話ずつ読み続けることは可能だ。
ただし、全てで8話程度だから、一週間のお楽しみと言うことになる。
話しは、暴走族くずれのヤンキーの兄ちゃんが、頑迷固陋なハチャメチャ落語家に入門するところから始まる。
本人は嫌がっているのだが、周りは非行少年の更生手段と考えているから、入門は無理矢理である。
やがて黄色いトサカ頭(モヒカン刈り)のプータロウ青年は、正式の内弟子となり、修業の日々が始まるのである。
この修業が、常軌を逸している。
稽古は、ホント、虐待に近いのである。
ところが、これは愛のムチ。
実は、彼を厳しく鍛える師匠、兄弟子達は、心暖かい人達?なのだ。
毎日が戦争のような内弟子生活が始まる。
師匠のお世話から、家事手伝い、果ては師匠の孫のお相手まで、馬車馬同然に働かされる。
と言って、一向に稽古をつけてくれる気配もない。
それどころか、機嫌が悪いと、容赦なく、鉄拳が、いや、一升ビンが飛んでくる。
理由なき暴力である。
ところが、ふと見せる愛情らしきもの?に騙される。
嫌々ながら、ズルズル居ついてしまうのである。
そこに、次々とミステリーさながら、謎解き事件が起こってくるのである。
その事件が、有名な落語のネタとオーバーラップして展開していくから面白い。
物語を辿ると同時に、落語の大まかな筋立ての紹介にもなっているのだ。
いやはや、手間の掛かった巧妙な小説だと言える。
同時に、笑いながら、落語家の世界や落語という芸の隅々まで触れてくれるのだから、まことに、お得な小説でもある。
おじさん、感心したのは、落語の本質が、ユーモアの中に見事に語られていることである。
落語は、何故、いつまでも、色褪せずに面白いのか?
古臭いものにならないのか?
今時の漫才と共存できるのか?
その答えが明確に書かれている。
まあ、音楽のクラシックやジャズが、何故、色褪せないのかということにも共通しているかもしれない。
そのココロは、結局、主役は、話の内容もさることながら、演者自身にあると言うことらしい。
やはり、芸というのは、究極、自己表現の手段らしいのだ。
芸とは、その自己表現の巧拙なのだ。
演目に関わりなく、うまい落語家は、時代を越えて、その芸により、むしゃくしゃするような現実を離れて、おじさんたちを暖かい人情の世界に遊ばせてくれるからである。
クラシックもジャズも、その技量により、心地よい精神的世界に、おじさんたちを没入させてくれる。
名人が語る落語の中では、心地よい世界に時が止まっているのだ。
今に生き残った古典落語は、言わば、芸人の自己表現のための、最良のツールかもしれない。
この本では、上方落語の代表的な、それら演目も、同時に紹介してくれる。
落語ファン必読の小説と言えるだろう。
絶妙のオチのある小説と言うべきか。ところで、ここに描かれている落語家の一門、きっと、笑福亭松鶴一門をイメージしているのではないだろうか。
フィクションだが、少なくとも、この笑酔亭梅寿は、まぎれもなく、笑福亭松鶴に違いない。
皆さんは、どう思われるでしょうか?
※ヤフーブログにて 2011年10月17日 アップ
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