この世は妖しの世界 『荒神』より ☆☆☆
『荒神』 著者 宮部 みゆき
……
揃って口を開けて、ぽかんと見上げるのは、頭上に高々と持ち上がっている、あの長く強靭な尾。
番士を二人巻き取って締め付けている。
一人は、両足を巻かれて、逆立ちの形になっており、だらりと垂れた二本の腕が、宙でブラブラしている。
もう一人は胴を巻かれているが、こちらも、全く抗ってはいない。
朱音(あかね)たちの方を向いている目は、開きっぱなしで、首がガクリと右に傾いでいる。
傾き過ぎだ。
折れている。
怪物の胴体は、まさしく、小山のようだ。
堅肥えで、目を疑う程大きく育ってしまった奇形のトカゲ。
朱音たちに気づいたのか、怪物が、こちらを向いた。
全体にズングリと丸い。
頭と胴体が同じ位に太い。
その間が、少しだけくびれているから、どうにか見分けがつくと言う程度だ。
四本の脚は短く、三本の鈎爪が生えた大きな足が、巨体を支えつつも、その下敷きになっているかのように見える。
この身体は何だ。
堅そうな鱗に覆われ、その鱗が、木の元で、少しずつ、絶え間なく色を変えている。
竹林に面した側の半身は竹林の色を映し、砦に面した半身は、どんどん傾きながら軋んで揺らぐ建物の黒い焼き板の色を映して、煤のようだ。
しかし、その煤が、見る間に灰色になり、緑がかった蛙の皮膚の色になり、また、煤の色へと戻っていく。
その変化の途中で、妖しく、ヌレヌレと光る。
その時だけを見るなら、蓑吉(みのきち)が言っていたように、蛇に似ていた。
……
【本文中より抜粋】
スワ、新ゴジラ来襲、いや、新大魔神か?
いやあ、久しぶりに宮部みゆきさんの「怪しの物語」を読んだ。
全くの奇想天外な物語だが、怪獣モノの娯楽映画の超大作を観ているようで飽きない。
おじさん、久々に、宮部みゆきさんのエンターティメントを満喫した。
いやもう、活字を目で追うにつれて、どんどん、描写が頭の中でめくるめく映像フィルムに変換していくようだ。
まあ、まるで、映画を観ているようなスペクタクル小説だと言っていいだろう。
新聞連載された長編小説だが、簡単にストーリーを追っておくと、こうだ。
……
時代は、戦国の気風が失われつつある、五代将軍徳川綱吉の治世の頃である。
国盗り合戦の騒乱も収まり、徐々に世の中は落ち着きを取り戻しつつあった。
とは言え、地方の小藩では、まだまだ、過去の因縁を引きずる藩同士が、何かと言っては、いがみ合っている状況だ。
この物語の舞台となる二つの藩も同様だ。
かっては、隙あらば、盗るか盗られるかの宿敵同士の国だった。
今は、関ヶ原の合戦以降、江戸幕府の権威により、形の上では、一つの藩として併合されて、主藩と支藩と言う関係で、何とか落ちついていた。
だが、内実は、お互いに、国境には砦を設け、敵を見張る番士を配備することで、厳しく住民の行き来を閉ざしていたのだ。
そんな折、突如、藩境の奥山に、正体不明の怪物が出現する。
怪物により、たった一夜の内に、国境の山村が急襲され、全滅してしまった。
やがて、常に腹をすかしている怪物は、次々に、周辺の村々や、国境を警備していた山の砦を襲う。
この怪物は、およそ小山ほどあり、人肉を喰らうのだ。
その外観は、冒頭に抜き書きしたように、凶暴で凄まじい程の醜悪な姿をしていた。
実は、その生き物は、戦国の頃、片方の藩が、国を守り敵国を略奪するために、呪詛により生み出そうとした巨大な怪物だった。
山の土くれで長大な身体が形作られ、そこに生命を宿すための生贄(いけにえ)となるヘビやトカゲ、ガマガエルなどの死骸が埋め込まれる。
その虚塊に、邪悪な呪術により命を吹き込むのだ。
藩主の一族には、古くから山の神に働きかけ、そうした呪術をよくする術者が存在したと言う。
ところが、実際には、戦国頃に行われた、その呪術の試みは上手く行かなかったようだ。
そのまま、巨大な土くれは放棄されたままで、深い山の中に眠っていた。
その失敗により、呪詛を試みた術者は処分され、その血を受け継ぐものは、生まれるとすぐに、他国に放逐されることになった。
ところが、その封じられたはずの怪物が突然命を宿したのだ。
終わることのない二つの藩の怨嗟の怨念が、徐々に、その怪物に暗いエネルギーを蓄えさせ、命を育んでいたようだ。
こうして、物語では、繰り返し怪物に立ち向かう、山村の住民や砦の番士たちの絶望的な戦いが生々しく描かれていく。
邪悪な呪詛から生まれた怪物は、それを生み出した呪術を受け継ぐ血筋でなければ倒すことはできない。
やがて、物語を読み進めるにつれて、藩主に気に入られ、熾烈な藩政改革を断行している吉之助(弾正)と、その美しい妹の朱音が、その一族の血脈に繋がり、生まれながらに、その怪物を鎮める宿命を担っていることが明らかになってくる。
実は、二人は、一つ腹の双子の兄妹で、生まれながらに呪詛の血を受け継いでいたのだ。
あくまで、この怪物騒動に乗じて、自藩の改革をやり遂げようとする兄に対し、妹の朱音は、一族の哀しい宿命を背負う者として、身を呈して怪物に立ち向かっていこうとする。
さて、その結末は、どうなるか?
それは、実際に、本書の長い長い物語を、自ら辿ってもらわなければならない。
いやあ、おじさんたちは、劇的な物語の終焉に驚愕することになるだろう。
もちろん、遠大な物語だけに、壮絶な怪物との闘争を縦糸に、当時の東北の小藩の厳しい藩政事情、藩主の四ツ木騒動、幕府隠密の暗躍、貧しく過酷な山村の暮らし振りなどが横糸として描き込まれ、なかなか、重層的で読み応えのあるファンタジーとなっている。
とにもかくにも、小説の圧巻は、前述した通り、呪詛から生まれた怪物と、それに立ち向かう村人や山人(やまびと/猟師)、番士などの凄まじい闘争の描写だろう。
だが、やはり、宮部みゆきさんの作品は、それだけの単なるエンターティメントには終わらない。
よくよく味わえば、深いのだ。
いつも思うのだが、おじさんたちは、宮部みゆきさんが描くジャンルの多様さ、多彩さには、ほとほと驚かされてしまう。
社会の病理をつく現代を舞台とする小説はもとより、未来小説、時代小説など、あらゆるジャンルが、それぞれ、同じ作家かと見まがうほどに、見事に描き分けられている。
しかし、それらに描かれている世界は、全く関連性のない個別な世界なのだろうか?
おじさんには、それらの世界が、どこかでクロスオーバーし、宮部みゆきさん自身が、その宮部ワールドと言うべき多重世界を、共通の主題を持ち、自在に行き来しているように思えてならない。
おじさん、今回、この小説を読みながら、この物語に登場する怪物は、宮部みゆきさんの描くあらゆる小説ジャンルにおいて一気通貫して著者が追究してきた、人間社会の妖しさをシンボライズしているように思えてならないのだ。
その怪しい気分が、今回の作品では、至極明瞭になって怪物として現れているような気がする。
よくよく見れば、宮部みゆきさんのどの小説にも、この怪物がどこかで、じっと身を潜めているような気がしてならないのだ。
いやはや、この怪物は、物語では、呪詛のパワーを徐々に蓄えて命が吹き込まれていく。
呪いとは、まさに悪意である。
他人に対する悪意が怪物のエネルギーとなるのだ。
しかし、この怪物が哀しいのは、その悪意の根源が、社会の理不尽さや不条理にあることだ。
言わば、悪意のための悪意ではなく、人間社会の不条理が生み出す、善意から生じる悪意なのだ。
少なくとも、その始まりは善意にあるが、いつしか、それは、知らず知らずの内に、人を苦悩させる悪意へと豹変していくのだ。
この物語に登場する主な主人公たちは、いずれも本質的には悪意に満ちた人間たちではない。
個々人を取り上げれば、概ね善意の側に立つ善良な人たちなのだ。
だから、誰が悪だと明瞭に色分けて決めつけることができない。
物語は、どこまで行っても勧善懲悪のストーリーとして、割り切ることができないのだ。
真剣に、主人公たちが社会の不条理に立ち向かい、そこで懸命にもがけばもがく程、その善意は悪意に変質してしまう。
これは、人間社会の持つ根源的な宿業なのだろうか?
おじさん思うのだが、宮部みゆきさんの一連の作品の根底には、常に、そうした人間社会の持つ、根源的な理不尽さに対する憤りや哀しさが、《妖しの世界》として描かれているのではないだろうか?
おじさん、それが今回の作品の中で、邪悪で醜い姿を持つ怪物として、明確に表象されたと思っている。
人間社会は、いつしか、善意が悪意に変質し、どこまでも悪意は善意として化粧されてしまう《妖しの世界》なのだ。
おじさん、エンターティメントを楽しみながらも、この《妖しの世界》に生きている者として、どこかしら、その哀感を共有せざる得なかった。
やはり、おじさんの心のどこかにも、この怪物は息を凝らして棲んでいるような気がする。
それは、怨嗟や呪詛のエネルギーにより、前触れもなく突然に目を醒まし、命を得るのではないか?
おおコワ!
【読書は、自らの心の奥底を、時として覗くことになる】
※ヤフーブログにて 2017年3月5日 アップ
……
揃って口を開けて、ぽかんと見上げるのは、頭上に高々と持ち上がっている、あの長く強靭な尾。
番士を二人巻き取って締め付けている。
一人は、両足を巻かれて、逆立ちの形になっており、だらりと垂れた二本の腕が、宙でブラブラしている。
もう一人は胴を巻かれているが、こちらも、全く抗ってはいない。
朱音(あかね)たちの方を向いている目は、開きっぱなしで、首がガクリと右に傾いでいる。
傾き過ぎだ。
折れている。
怪物の胴体は、まさしく、小山のようだ。
堅肥えで、目を疑う程大きく育ってしまった奇形のトカゲ。
朱音たちに気づいたのか、怪物が、こちらを向いた。
全体にズングリと丸い。
頭と胴体が同じ位に太い。
その間が、少しだけくびれているから、どうにか見分けがつくと言う程度だ。
四本の脚は短く、三本の鈎爪が生えた大きな足が、巨体を支えつつも、その下敷きになっているかのように見える。
この身体は何だ。
堅そうな鱗に覆われ、その鱗が、木の元で、少しずつ、絶え間なく色を変えている。
竹林に面した側の半身は竹林の色を映し、砦に面した半身は、どんどん傾きながら軋んで揺らぐ建物の黒い焼き板の色を映して、煤のようだ。
しかし、その煤が、見る間に灰色になり、緑がかった蛙の皮膚の色になり、また、煤の色へと戻っていく。
その変化の途中で、妖しく、ヌレヌレと光る。
その時だけを見るなら、蓑吉(みのきち)が言っていたように、蛇に似ていた。
……
【本文中より抜粋】
スワ、新ゴジラ来襲、いや、新大魔神か?
いやあ、久しぶりに宮部みゆきさんの「怪しの物語」を読んだ。
全くの奇想天外な物語だが、怪獣モノの娯楽映画の超大作を観ているようで飽きない。
おじさん、久々に、宮部みゆきさんのエンターティメントを満喫した。
いやもう、活字を目で追うにつれて、どんどん、描写が頭の中でめくるめく映像フィルムに変換していくようだ。
まあ、まるで、映画を観ているようなスペクタクル小説だと言っていいだろう。
新聞連載された長編小説だが、簡単にストーリーを追っておくと、こうだ。
……
時代は、戦国の気風が失われつつある、五代将軍徳川綱吉の治世の頃である。
国盗り合戦の騒乱も収まり、徐々に世の中は落ち着きを取り戻しつつあった。
とは言え、地方の小藩では、まだまだ、過去の因縁を引きずる藩同士が、何かと言っては、いがみ合っている状況だ。
この物語の舞台となる二つの藩も同様だ。
かっては、隙あらば、盗るか盗られるかの宿敵同士の国だった。
今は、関ヶ原の合戦以降、江戸幕府の権威により、形の上では、一つの藩として併合されて、主藩と支藩と言う関係で、何とか落ちついていた。
だが、内実は、お互いに、国境には砦を設け、敵を見張る番士を配備することで、厳しく住民の行き来を閉ざしていたのだ。
そんな折、突如、藩境の奥山に、正体不明の怪物が出現する。
怪物により、たった一夜の内に、国境の山村が急襲され、全滅してしまった。
やがて、常に腹をすかしている怪物は、次々に、周辺の村々や、国境を警備していた山の砦を襲う。
この怪物は、およそ小山ほどあり、人肉を喰らうのだ。
その外観は、冒頭に抜き書きしたように、凶暴で凄まじい程の醜悪な姿をしていた。
実は、その生き物は、戦国の頃、片方の藩が、国を守り敵国を略奪するために、呪詛により生み出そうとした巨大な怪物だった。
山の土くれで長大な身体が形作られ、そこに生命を宿すための生贄(いけにえ)となるヘビやトカゲ、ガマガエルなどの死骸が埋め込まれる。
その虚塊に、邪悪な呪術により命を吹き込むのだ。
藩主の一族には、古くから山の神に働きかけ、そうした呪術をよくする術者が存在したと言う。
ところが、実際には、戦国頃に行われた、その呪術の試みは上手く行かなかったようだ。
そのまま、巨大な土くれは放棄されたままで、深い山の中に眠っていた。
その失敗により、呪詛を試みた術者は処分され、その血を受け継ぐものは、生まれるとすぐに、他国に放逐されることになった。
ところが、その封じられたはずの怪物が突然命を宿したのだ。
終わることのない二つの藩の怨嗟の怨念が、徐々に、その怪物に暗いエネルギーを蓄えさせ、命を育んでいたようだ。
こうして、物語では、繰り返し怪物に立ち向かう、山村の住民や砦の番士たちの絶望的な戦いが生々しく描かれていく。
邪悪な呪詛から生まれた怪物は、それを生み出した呪術を受け継ぐ血筋でなければ倒すことはできない。
やがて、物語を読み進めるにつれて、藩主に気に入られ、熾烈な藩政改革を断行している吉之助(弾正)と、その美しい妹の朱音が、その一族の血脈に繋がり、生まれながらに、その怪物を鎮める宿命を担っていることが明らかになってくる。
実は、二人は、一つ腹の双子の兄妹で、生まれながらに呪詛の血を受け継いでいたのだ。
あくまで、この怪物騒動に乗じて、自藩の改革をやり遂げようとする兄に対し、妹の朱音は、一族の哀しい宿命を背負う者として、身を呈して怪物に立ち向かっていこうとする。
さて、その結末は、どうなるか?
それは、実際に、本書の長い長い物語を、自ら辿ってもらわなければならない。
いやあ、おじさんたちは、劇的な物語の終焉に驚愕することになるだろう。
もちろん、遠大な物語だけに、壮絶な怪物との闘争を縦糸に、当時の東北の小藩の厳しい藩政事情、藩主の四ツ木騒動、幕府隠密の暗躍、貧しく過酷な山村の暮らし振りなどが横糸として描き込まれ、なかなか、重層的で読み応えのあるファンタジーとなっている。
とにもかくにも、小説の圧巻は、前述した通り、呪詛から生まれた怪物と、それに立ち向かう村人や山人(やまびと/猟師)、番士などの凄まじい闘争の描写だろう。
だが、やはり、宮部みゆきさんの作品は、それだけの単なるエンターティメントには終わらない。
よくよく味わえば、深いのだ。
いつも思うのだが、おじさんたちは、宮部みゆきさんが描くジャンルの多様さ、多彩さには、ほとほと驚かされてしまう。
社会の病理をつく現代を舞台とする小説はもとより、未来小説、時代小説など、あらゆるジャンルが、それぞれ、同じ作家かと見まがうほどに、見事に描き分けられている。
しかし、それらに描かれている世界は、全く関連性のない個別な世界なのだろうか?
おじさんには、それらの世界が、どこかでクロスオーバーし、宮部みゆきさん自身が、その宮部ワールドと言うべき多重世界を、共通の主題を持ち、自在に行き来しているように思えてならない。
おじさん、今回、この小説を読みながら、この物語に登場する怪物は、宮部みゆきさんの描くあらゆる小説ジャンルにおいて一気通貫して著者が追究してきた、人間社会の妖しさをシンボライズしているように思えてならないのだ。
その怪しい気分が、今回の作品では、至極明瞭になって怪物として現れているような気がする。
よくよく見れば、宮部みゆきさんのどの小説にも、この怪物がどこかで、じっと身を潜めているような気がしてならないのだ。
いやはや、この怪物は、物語では、呪詛のパワーを徐々に蓄えて命が吹き込まれていく。
呪いとは、まさに悪意である。
他人に対する悪意が怪物のエネルギーとなるのだ。
しかし、この怪物が哀しいのは、その悪意の根源が、社会の理不尽さや不条理にあることだ。
言わば、悪意のための悪意ではなく、人間社会の不条理が生み出す、善意から生じる悪意なのだ。
少なくとも、その始まりは善意にあるが、いつしか、それは、知らず知らずの内に、人を苦悩させる悪意へと豹変していくのだ。
この物語に登場する主な主人公たちは、いずれも本質的には悪意に満ちた人間たちではない。
個々人を取り上げれば、概ね善意の側に立つ善良な人たちなのだ。
だから、誰が悪だと明瞭に色分けて決めつけることができない。
物語は、どこまで行っても勧善懲悪のストーリーとして、割り切ることができないのだ。
真剣に、主人公たちが社会の不条理に立ち向かい、そこで懸命にもがけばもがく程、その善意は悪意に変質してしまう。
これは、人間社会の持つ根源的な宿業なのだろうか?
おじさん思うのだが、宮部みゆきさんの一連の作品の根底には、常に、そうした人間社会の持つ、根源的な理不尽さに対する憤りや哀しさが、《妖しの世界》として描かれているのではないだろうか?
おじさん、それが今回の作品の中で、邪悪で醜い姿を持つ怪物として、明確に表象されたと思っている。
人間社会は、いつしか、善意が悪意に変質し、どこまでも悪意は善意として化粧されてしまう《妖しの世界》なのだ。
おじさん、エンターティメントを楽しみながらも、この《妖しの世界》に生きている者として、どこかしら、その哀感を共有せざる得なかった。
やはり、おじさんの心のどこかにも、この怪物は息を凝らして棲んでいるような気がする。
それは、怨嗟や呪詛のエネルギーにより、前触れもなく突然に目を醒まし、命を得るのではないか?
おおコワ!
【読書は、自らの心の奥底を、時として覗くことになる】
※ヤフーブログにて 2017年3月5日 アップ
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