古都をめぐる33の講座 『京都学を楽しむ』より ☆☆
『京都学を楽しむ』 知恵の会編
おじさんの古本屋の棚に、数冊の大阪学に関わる本がある。
一時は、ブームになったと記憶している。
ところが、京都学と言うのは珍しい。
早速、本を開いてみた。
ところで、いささか、不思議に思ったのだが、大阪学や京都学は、何となくしっくりいくように思えるのだが、どうも、東京学という言葉は、座りが良くないように思うのだ。
どうしてだろうか?
やはり、歴史的な背景の違いか、文化の深さの違いかもしれない。
いわゆる、東京は、東京学と言う言葉が成り立たない程、文化が表層的で、日々、変貌が激しいということだろうか?
いやはや、学問として、一地方が研究に値するのは、伝統文化が根っことして残っていなければならないのだろう。
そして、まあ、その根っこが、まさに、言ってみれば、根強く、地域の暮らしや風習、ものの考え方などに、個性を与えていなければならないのだ。
そう考えれば、いやはや、大阪学、京都学というのは頷けるような気がする。
おじさん、この本、いささか長いが、興味深々、期待を持って読んでみる気になった。
学生時代、休暇で暇ができれば、意味もなく京都へ出かけて、そぞろ歩いていたのを思い出す。
おじさんにとって若い頃から、京都は堪らなく魅力的な街だった。
哲学の道ではないが、哲学者よろしく、所在なく1人で歩いていても違和感がないし、何気ない中に、ふと、京都らしく奥深い文化に出会えるのである。
出会い頭で楽しめる、暮らしに寄り添った伝統文化が、そこかしこに存在するのだ。
まあ、日常生活の中に、文化が息づいていると言えるのかもしれない。
この本は、知恵の会という、恐らく、京都に仕事を持っていたり、関心があったり、長く暮らしている等、何らかの形で京都と深く関わりを持つ人達が、それぞれの目線で、京都の魅力を語ったものを、33編集めたものである。
しかしながら、読んではみたものの、少し、おじさんが期待していた内容とは違っていたようだ。
内容がアカデミック過ぎるのだ。
後で、筆者の経歴を覗いてみると、大部分が、京都の大学の先生たちだった。
どうも、中味が堅苦しいのだ。
おじさん、文化を文化として捉えるのではなく、文化が生き生きと暮らしの中に息づく様を覗いてみたいと思っていたのだが、読んでいると、どうも、大学で聴講しているような気分になってしまった。
いやまあ、そんな中でも、幾つか、関心を持てた記述もあった。
例えば、よく言われる、京都人気質というやつである。
《ぶぶ漬け》の京都人、いやもう、《いけず》の京都人として有名だ。
落語にもあるが、京都で、訪問宅に長居をしてしまって、夕食時、「ぶぶ漬けでもどうどす?」と勧められても、決して、厚かましく、ご馳走になってはいけないのだ。
それは、そろそろお帰りになられたらどうですかというサインなのだ。
長居しているお客さんに対して、やんわりと、いなしてしまう京都人の気質の表象である。
ものをはっきり言わず、遠回しに、相手に悟らせるという人間づき合いの在り方なのだ。
ルーツは、公家的世界の奥ゆかしさにあるのかもしれない。
政治家の腹芸のようで、現在では、あまりこうした態度は好まれないだろうが、一方では、相手に婉曲的に思いを伝え、争いなく、良好な人間関係を保つための知恵であるかもしれない。
万事が全て、京都人にはこんな所がある。
この辺が毀誉褒貶、京都人に対する好き嫌いを二分するところである。
同じ関西人でも、言いたいことを、ズケズケ、遠慮なく口に出す、おじさんたち大阪人とは大いに違う所である。
他から来た人間には、排他的に映るかもしれないが、京都人同士なら、これ程、人間関係がスムーズにいくことはないのである。
おじさんも大学の頃の何人かの友人を思い浮かべてみたが、当たっていない所もないなと思った。
こんな話題が、硬軟おり交ぜて33講座あるのだ。
まあ、人によって、京都に持たれる関心も様々だろうが、おじさん、お薦めなのは、この本の33講座、全てを読もうとするのではなく、まあ、「お好みあられ」と思われて、お好きな講座から摘まんでみられたらどうだろうか?
律儀に全てを読む本ではないような気がする。
軽い気持ちで、どうぞ!
※ヤフーブログにて 2016年5月27日 アップ
おじさんの古本屋の棚に、数冊の大阪学に関わる本がある。
一時は、ブームになったと記憶している。
ところが、京都学と言うのは珍しい。
早速、本を開いてみた。
ところで、いささか、不思議に思ったのだが、大阪学や京都学は、何となくしっくりいくように思えるのだが、どうも、東京学という言葉は、座りが良くないように思うのだ。
どうしてだろうか?
やはり、歴史的な背景の違いか、文化の深さの違いかもしれない。
いわゆる、東京は、東京学と言う言葉が成り立たない程、文化が表層的で、日々、変貌が激しいということだろうか?
いやはや、学問として、一地方が研究に値するのは、伝統文化が根っことして残っていなければならないのだろう。
そして、まあ、その根っこが、まさに、言ってみれば、根強く、地域の暮らしや風習、ものの考え方などに、個性を与えていなければならないのだ。
そう考えれば、いやはや、大阪学、京都学というのは頷けるような気がする。
おじさん、この本、いささか長いが、興味深々、期待を持って読んでみる気になった。
学生時代、休暇で暇ができれば、意味もなく京都へ出かけて、そぞろ歩いていたのを思い出す。
おじさんにとって若い頃から、京都は堪らなく魅力的な街だった。
哲学の道ではないが、哲学者よろしく、所在なく1人で歩いていても違和感がないし、何気ない中に、ふと、京都らしく奥深い文化に出会えるのである。
出会い頭で楽しめる、暮らしに寄り添った伝統文化が、そこかしこに存在するのだ。
まあ、日常生活の中に、文化が息づいていると言えるのかもしれない。
この本は、知恵の会という、恐らく、京都に仕事を持っていたり、関心があったり、長く暮らしている等、何らかの形で京都と深く関わりを持つ人達が、それぞれの目線で、京都の魅力を語ったものを、33編集めたものである。
しかしながら、読んではみたものの、少し、おじさんが期待していた内容とは違っていたようだ。
内容がアカデミック過ぎるのだ。
後で、筆者の経歴を覗いてみると、大部分が、京都の大学の先生たちだった。
どうも、中味が堅苦しいのだ。
おじさん、文化を文化として捉えるのではなく、文化が生き生きと暮らしの中に息づく様を覗いてみたいと思っていたのだが、読んでいると、どうも、大学で聴講しているような気分になってしまった。
いやまあ、そんな中でも、幾つか、関心を持てた記述もあった。
例えば、よく言われる、京都人気質というやつである。
《ぶぶ漬け》の京都人、いやもう、《いけず》の京都人として有名だ。
落語にもあるが、京都で、訪問宅に長居をしてしまって、夕食時、「ぶぶ漬けでもどうどす?」と勧められても、決して、厚かましく、ご馳走になってはいけないのだ。
それは、そろそろお帰りになられたらどうですかというサインなのだ。
長居しているお客さんに対して、やんわりと、いなしてしまう京都人の気質の表象である。
ものをはっきり言わず、遠回しに、相手に悟らせるという人間づき合いの在り方なのだ。
ルーツは、公家的世界の奥ゆかしさにあるのかもしれない。
政治家の腹芸のようで、現在では、あまりこうした態度は好まれないだろうが、一方では、相手に婉曲的に思いを伝え、争いなく、良好な人間関係を保つための知恵であるかもしれない。
万事が全て、京都人にはこんな所がある。
この辺が毀誉褒貶、京都人に対する好き嫌いを二分するところである。
同じ関西人でも、言いたいことを、ズケズケ、遠慮なく口に出す、おじさんたち大阪人とは大いに違う所である。
他から来た人間には、排他的に映るかもしれないが、京都人同士なら、これ程、人間関係がスムーズにいくことはないのである。
おじさんも大学の頃の何人かの友人を思い浮かべてみたが、当たっていない所もないなと思った。
こんな話題が、硬軟おり交ぜて33講座あるのだ。
まあ、人によって、京都に持たれる関心も様々だろうが、おじさん、お薦めなのは、この本の33講座、全てを読もうとするのではなく、まあ、「お好みあられ」と思われて、お好きな講座から摘まんでみられたらどうだろうか?
律儀に全てを読む本ではないような気がする。
軽い気持ちで、どうぞ!
※ヤフーブログにて 2016年5月27日 アップ
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