女性よ、踊らされないで! 『スコールの夜』より ☆☆☆

『スコールの夜』 著者 芦崎 笙(あしざき しょう)

いやあ、おじさん、この小説を読んでいると、まるで、東京の新橋辺りの居酒屋で、会社帰りのエリート銀行マンたちが職場の愚痴を肴に盛り上がっているのを横目に、1人、チビチビと一杯ひっかけているような気分になる。

あるいは、偶然、六本木辺りのイタメシ屋で、男社会を痛烈に揶揄し合っている、銀行のキャリアウーマンらしきグループに出会い、その隣のテーブルで、知らず知らずに聞き耳を立てているような気分にもなる。

いやまあ、本作品を読めば、一見エリート集団に見える大手銀行も、その内実は、権力闘争や出世競争に翻弄され、組織の論理に喘いでいる人たちの集団であることが理解できる。

いやまあ、銀行であろうと、商社であろうと、あるいは、大企業であっても、中小企業であっても、結局、組織で働くことの根っこは、みんな同じだと言うことだ。

いずれにしろ、企業人である限り、会社の組織論理に縛られ、そこから逃れようがないのだ。

だから、この作品に、眼を見張るような華々しいストーリー展開を土台期待してはいけない。

どこでも同じだ。

この物語も、ただ、大手銀行と言う組織で当たり前に起こっている、ありふれた理不尽さや不条理を描いているに過ぎないのだ。

言わば、主人公の組織に対する愚痴と呪詛の記録とも言えるのだ。

いやはや、実は、おじさん、読んでいてあまり後味の良い物語ではなかった。

いやもう、現役時代の会社組織の軋轢や人間関係のトラウマを、いやが上にも思い出してしまうからだ。

オマケに、「結局、宮仕えとはそんなものだ。組織で成り上がっていくには、清濁合わせ持って、長い物に巻かれて生きるしかないのだ。」と言う、処世訓的な物語のエンディングは、おじさんには、どうもいただけない。

とにもかくにも、おじさん、当たり前のことだが、人間のやることは、エリートが集まる大銀行であっても例外でなく、どこでも同じだなと合点した。

いやまあ、それはさておき、具体的に、小説の内容に入ろう。

物語は、大手銀行の直系子会社の整理に纏わる組織抗争を背景に、その対応を命じられた女性のキャリアエリートの悪戦苦闘ぶりを描いている。

事の発端は、こうだ。

新しく就任した頭取が、経営改革の一環として、過去の暗部を引きずった子会社の切り捨てを断行しようとする。

この子会社の業務内容は、銀行における事務作業のアウトソーシング対応である。

社員数は200名程度。

その中には、銀行本店からの出向組も多く含まれていた。

同時に、この子会社は、表沙汰にできないような、かって?、銀行が闇社会や総会屋などと関係を持っていた頃の負の遺産を密かに引き継いでいた。

新頭取にとっては、この際、一気に過去の旧経営陣の負の遺産を処理してしまいたいと言う強い思いがあった。

さらに、リーマンショックで、銀行の収益は悪化している。

そのため、経営体質の改善へ向けた明確な意思を示すため、スケープゴート(生贄)も必要となった。

それにしても、社会的な体面を気にする大手銀行にとって、このケースは、あまりにも強引な子会社整理だと言わざる得ない。

通常、大手銀行が、直系子会社を一気に整理するなどと言うことは考えにくい。

案の定、元頭取の大物功労者から、やり過ぎではないかと横槍が入る。

こうして、この子会社の整理は、新旧の銀行の上層部の権力抗争も絡んで、複雑な様相を見せ始める。

そんな厄介な問題を担当することになったのが、入行20年、キャリアエリートの道をひたすら走ってきた主人公だった。

彼女は、女性総合職として採用された、花の第一期生だ。

それまで、銀行の女性社員は、店舗窓口の花であり、数年も経てば、同じ銀行の男性社員と結婚し、寿退社するのが通例だった。

そんな中で、彼女は、男性の優秀な社員に伍して頭角を現している。

現在の役職は、本店総務部経営企画課の室長だ。

やがては、銀行初の女性重役も視野に入るポストだ。

さて、そんな主人公のプロフィールだが、卒業大学は東京大学、その上、法学部の出身と言うのだ。

メガバンクである銀行内でも、男性社員が一目置かざる得ない、出色のキャリアだと言って良い。

しかし、こうした輝かしい経歴と、これまでひたすら積み上げてきた実績が、むしろ、彼女にとっては大きな負担となっていた。

とは言え、おじさんも、この主人公が女性エリートであり、さらに東大法学部出身と言う経歴を聞けば、やはり、正直、一緒に仕事をするには気がひけて、二の足を踏んでしまう。

いや、後ずさりしてしまう。

いやまあ、女性蔑視だと言われかねないが、おじさん、重要な仕事で、女生と働くことや、ましてや、東大卒とご一緒するのは、正直言って、御免蒙りたい気がする。

多分に、おじさんのやっかみかもしれないが、エヘヘ! 

まず、何と言っても、東大出身ということだ。

高校時代、東大へ入学したクラスメートは、如何にも付き合いが悪かった。

何を考えているか、得体が知れなかった。

明らかに、クラスで浮いていた。

どうも、彼には、受験参考書が一番のお友達だったようだ。

おじさん、社会人になって、またまた、幸か不幸か、東大卒の同僚と働く破目になった。

どうも正直言って、波長が合わなかったことは確かだ。

一応、おじさんが会社では先輩に当たる。

だから、彼の入社動機について書いた作文に、目を通したが、これが、てんで出鱈目な文章だった。

本気で書いていないと思える上に、大人と思えない稚拙な論理展開だった。

いやまあ、それから、そのことが証明される様々な出来事に、おじさん遭遇することになるのだ。

色々あるが、まずもって驚かされたのは、彼が、偶さか持参した握り寿司の弁当を覗き見た時だった。

何と、弁当箱の蓋を開けてみると、その中は、一面真っ赤である。

驚いたが、何のことはない、全て、マグロの赤身の握り寿司が、びっしりと詰まっていたのだ。

母親が、頭が良くなるようにと、子供の頃からマグロ寿司ばかりを、彼に食べさせていたとのことだ。

そう言えば、マグロには、確か、DHAだとか言う頭の良くなる成分が多く含まれているらしい。

おじさんも、好物の白いイカの寿司ばかりを食べないで、もっとマグロの寿司を食べていれば良かった。アハハ! 

また、こんな事もあった。

当時、彼はSEの肩書きで、企業の財務システムなどの開発を担当していた。

ある時、2人で、およそ電車で1時間くらいの郊外のクライアントに出かけた時のことだ。

最寄りの駅を降りてからも、そのクライアントへは、かなり歩かなければならない。

で、彼が重そうな紙袋を2つ持っていたので、おじさん、親切心で、紙袋を1つ運ぶのを手助けした。

それは良いのだが、何とクライアントについてみれば、その紙袋には、漫画のコミック本がびっしりと詰まっていたのだ。

何と、作業の合間や、昼休み、移動の途中に読むための漫画本だと言うのだ。

これには、おじさん、怒るのも忘れ、呆れ果ててしまった。

さらに、こんな事もあった。

職場での事だ。

皆が共通のプロジェクトで忙しく動き回っていた。

何と、彼は、自分の受け持ちパートの仕事が終ってしまうと、さっさと、会計士試験の参考書を取り出し、平然と勉強を始めたのだ。

まるで、周囲を気に掛ける素振りもない。

いやあ、恐ろしく集中して、参考書に取り組んでいた。

これは、《東大生的合理性》と言うべきものだろうか? 

まあ、そのせいか、会社勤めを続けながら、1年足らずの勉強で、見事、難関会計士の試験に合格してしまった。

偉いと言えば偉いのだが…。

ただし、同僚には、呆れ果てられる存在だったようだ。

こういう性格の持ち主が、組織の上層部に上って行くかと思えば、ゾッとする。

その後の彼の事だ。

会計士試験に合格してから、さっさと大手の会計会社に転職した。

今では、クルーザーに乗り、悠々自適の生活をしていると、風の噂に聞いている。

おじさんなど、彼を見ていると、人間不信、果は、社会不審に陥ったものだ。

まあ、おじさんの多分に偏見からくる東大的気質については、これ位にしておこう。

さて、次は、女性のキャリアについてだ。

セクハラのイエローカード連発だと思うが、ご容赦願いたい。

これも、嫌な思いが沢山ある。

おじさん、何事にも頑張る女性は大好きなのだが、できれば、頭でっかちの女性のキャリアエリートとだけは、仕事をご一緒したくない。

ある大手の事務機器メーカーの広報担当課と学習ソフト開発の仕事をしていた時のことだ。

おじさんたちの担当者は、同じ年恰好のまだ若い2人の女性だった。

1人は、気位の高そうな有名国立大学教育学部卒業の女史。

まあ、あまり可愛くない方だ。

外見は、あの田嶋陽子さんに似ていたような気がする。

おかっぱヘアスタイルで、黒縁のぶ厚いメガネをかけていた。

もう1人は、私立女子大出身のごく普通の女性だった。

いやもう、この2人が、一緒にミーティングに出てくると、おじさんたちは、戦々恐々、俄かに緊張したものだ。

いつも、打ち合わせの際に、2人と顔を向き合わせる時間は、必ず平等でなければならない。

いや、むしろ、女史の方に、幾分大目に視線を投げかけるように気を遣う。

さらに、話しかける機会も、均等でなければならない。

少しでも、普通の女性の方に親しげに語りかけると、急に、女史のご機嫌が斜めになる。

だから、おじさんたちは、いつも、びくびくしていた。

余程、女史の虫の居所が悪い時などは、あること無いこと、担当課の部長へご心中ということになる。

当然、おじさんたちは呼び出されて、訳も分らない内に、きついお叱りを受ける。

一度、この女史に、突然、理由なく泣き出されて、右往左往したことがある。

おじさんたちは、「決して、あなたをないがしろにはしていませんよ」ということを分かってもらうために、わざわざ、特別接待をしたことまである。

まあ、仕事の方も、頭の良い女史のことだから、随分、杓子定規な理屈をこねられ、ネチネチやられたことを思い出す。

これは、おじさんがキャリア女性と仕事をすることがトラウマになってしまった一つの要因だ。

いやはや、ある金属メーカーでは、こんな女性総合職キャリアもいた。

某国立女子大出身だけに、企業での配属先は、商品の開発企画を担当する花形の部署に配属されていた。

期待されてのことだろう。

これはこれで良かったし、この部署は、充分、彼女の自尊心を満たしたのだ。

ところが、学業の偏差値と、実際の職場における業務の遂行能力とは、必ずしも一致しない。

時には、自分の自尊心を犠牲にしてでも、チームワークや人間関係の融和が優先される場合もある。

理屈だけでは、仕事は進まない。

残念ながら、この方の配慮については苦手だったらしく、彼女の仕事への熱意はことごとく空回りする。

むしろ、地方採用だが、その後、抜擢を受け、この部署に配属されてきた女性の方が、周囲の協力を引き出し、実績を着々と挙げていた。

結局、彼女は、目立って業績を挙げることができなかった。

人事部は、一旦、彼女を地味な品質管理などの部署へ配転させることに決めた。

部署替えを通告された彼女は、プライドが傷つけられたのか、職場で号泣し、中々、配転を受け入れない。

一方では、見るのも気の毒な程に自信を無くし、すっかり意気消沈した様子だった。

おじさんたち、仕事をサポートしていた外部の人間まで、彼女の慰めに狩り出される始末だ。

いやあ、またまた、おじさん、特別接待をすることになってしまったのだ。

聴くところによると、今では、新しく配属になった品質管理部の仕事に、水が合ったらしく、結構、機嫌良く仕事をこなしていると言う。

いやはや、人間には、向き不向き、能力の発揮しどころがあるのだ。

あまりに気位が高くて、キャリアに縛られる女性は、おじさんたち外部ブレーンにとっても、一緒に仕事のやりづらい相手だ。

むろん、男性にも、こうした学歴偏重や偏差値幻想に捉われる人もいる。

だが、女性の場合には、殊更多いようである。

まあ、女性は、やはり、仕事において、感情が優先される度合いが高いためだろう。

おじさん、よく経験したが、自社の女性スタッフが、女性の外部ブレーンとお友達になってしまい、どっちの立場で仕事をしているのか分からなくなってしまうことがある。

これにも、随分閉口したものだ。

もう、これまで!  

いやはや、おじさん、いささか女性のキャリアエリートに噛みつき過ぎたようである。

とにかく、おじさん、現役時代は、結構、こうした女性の仕事ぶりに悩まされていた。

残念なことに、日本のビジネス世界は、まだまだ男の論理がまかり通る社会だ。

確かに、男は、できる女性に対し、ともすれば、同性以上に激しい嫉妬心を抱くことがある。

仕事が上手く行かないことの鬱憤を、性差に、はけ口を向けることもあるだろう。

とにもかくにも、日本のビジネス世界では、今でも男性社会の論理がまかり通っている。

これは、疑いようもない事実だ。

長い間、日本の社会では、男性は外に出て稼いでくるもの、女性は家で育児と家事をするものと言う、伝統的な役割分担がなされていた。

やはり、こうした意識から、社会が解き放たれるためには、まだ随分、時間がかかるのではないだろうか? 

また、そうした社会的な土壌に、女性の方も甘えているところもある。

年金だって、未だに第三号被保険者の制度が厳然として続いているではないか? 

まあ、それはともかく、おじさん思うのだが、大切なことは、男性社会に女性が伍して肩を並べるのではなく、男女の性差を踏まえた上での、新しい社会の受け皿を、時間をかけて作り出して行くことが重要になるだろう。

これには、現場における地道で気の長い取り組みが必要だ。

今、《一億総活躍社会》が盛んに叫ばれている。

その目玉政策が、女性の社会進出というのは、どうも、胡散臭く思えてならない。

女性の重要ポストへの登用のレベルが、国際的にいくら低いと言っても、政府が主導し、半ば強権的に女性公務員の採用人数を増やしたり、企業に、女性重役や管理職を一定比率登用するように強要することは、どうもいただけない。

どう考えても、明らかにやり過ぎだ。

根っこにある男性社会の枠組みが変わらない限り、却って、職場や組織に要らぬ軋轢を生むだけだろう。

要は、おじさん言いたいのは、その根っこの土壌自体を根本的に変えないと、どんなに花を咲かせようとしても、それは根付かない。

そして、組織風土を変えるには、もっと地道な時間をかけた取り組みが必要になるのではないか? 

容易に、男性社会と見せかけの融和を図ろうとしても、絵に描いた餅に終ってしまう。

あくまで、男性は男性、女性は女生として、それぞれの能力や感性を効果的に発揮することができる、相互に才能を認め合える社会を作り上げる必要があるのだ。

いやまあ、このことについては、色々な議論があるだろう。

いずれにしろ、安倍首相をはじめ、政府のパフォーマンスを見ていると、労働不足の解消のため、手っ取り早く、女性を持ち上げ、即戦力となる女性パワーを有効に使いこなそうと言う意図が見え見えだ。

いやもう、昨今の「輝く女性づくり」と言う発想は、おじさんなど、むしろ、極めて男性社会的な発想に思えてならない。

講演会の不正会計処理事件で、就任後、たった1ヶ月で経済産業大臣を辞めなければならなくなった、元小渕首相の娘さんなどが、お飾りの大臣になっても、そのことを、輝く女性の活躍だと言うことができるだろうか? 

いやあ、高市さんとか、蓮舫さんとか、最近、パフォーマンス型の女性閣僚が増えた。

だが、それが、必ずしも女性が輝いている社会の証になっているとは言えない。 

さて、あまり憎まれ口を言っていても仕方がない。

元へ。

この物語の主人公は、女性初の大手銀行総合職として、社内では常に注目を浴びる存在だった。

その上、東大法学部卒というキャリアだけに、男性から、この上ない好奇と嫉妬の目に曝され続けていた。

そんな環境下、女性総合職の星としての使命感のため、懸命に男性に伍してエリート街道を突っ走ってきたのだ。

ある意味、その頑張りは、男性社会に対する女の意地だったかもしれない。

しかし、彼女が上り詰めようとしている組織の頂は、果たして、彼女が本来目指すに足る程に価値あるものだったのだろうか? 

いやはや、子会社の整理という、企業論理が露骨に働く汚れ仕事を命じられた時、彼女は、自分が目指してきた組織へのロイヤリティが大きく揺らぐのを感じる。

一体、組織の上層部にまで上り詰めたとしても、組織は自分に何を与えてくれるのだろうか? 

かって、懸命に組織のために働いた人たちが、いとも簡単に、上層部の都合や権力争いにより、冷酷に切り捨てられていく。

今日、自分が仲間を斬った刀で、明日は、自らが斬られないとは限らない。

因果は巡る。

今、自分は、組織防衛と言う大義名分により、過酷な解雇を断行している。

そのことに、どれ程の意味があるのだろうか?

女性総合職、それも東大法学部卒業と言うキャリアゆえ、組織に踊らされているだけではないのか? 

自分がこれまで、ひたすら積み重ねてきた実績は、本当に正当な評価の結果なのだろうか? 

いやいや、ひょっとして、その実績すら男社会の権力抗争のために演出されていたのかもしれない。

自分は、男社会に咲く、単なる女性蔑視の徒花ではなかったのか? 

ただ、自分は、組織にとって、女性の積極的な登用を示すためのパフォーマンス的存在に過ぎなかったのではないか? 

それは、ある意味、男社会が巧妙に仕組んだ女性登用のポーズだったかもしれないのだ。

結局、それに自分は踊らされていただけなのだろうか? 

まるで、これは、女性への逆差別と言えなくもない。

同様に、今の安倍政権が、「女性が輝く社会の実現」を声高に叫べば叫ぶほど、おじさん、かえって、女性に対する逆差別のように聞こえてならないのだ。

それは、本来、女性が女性らしい能力を発揮することとは、別な次元の事のように思えるのだ。

いやあ、物語の主人公は、子会社の理不尽な整理と言う過酷なミッションを通じて、組織へのロイヤリティとは何か? 

そこで、女性としての本来の能力を発揮するということは、どう言う意味なのかを自問自答し始めるのだ。

まあ、そういうことで、本作品は、大銀行の徒花、初めての女性総合職キャリアの辛い胸の内を吐露したダイアリーと言うことになるだろう。

おじさん、冒頭で、仕事を頑張る女性が大好きであると言った。

女性は、もっと肩の力を抜いて、虚心坦懐に、性差へのこだわりを捨て、誠実に仕事へのロイヤリティを高めていけば、時間はかかっても、確実に男や女と言う区別を意識しないステージに立てるのではないか? 

もう、政治的なスローガンのために、女性を踊らせるのは止めませんか? 

安倍首相さん!

   ※ヤフーブログにて 2016年4月3日 アップ

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