怪談は、心の闇を吹き払う? 『泣き童子』より ☆☆☆☆
『泣き童子』 著者 宮部 みゆき
……
お客様、三島屋の百物語は、この黒白(こくびゃく)の間(ま)だけのお話しでございます。
聞いて聞き捨て、語って語り捨てを決まりとしております。
また、お客様のお名前や、ご身分を明かされる必要もありません。
お話しの中に出てくる方のお名前も同様でございます。
…… 【本文より抜粋】
季節外れの怪談話しで申し訳ない。
いやはや、冬の百物語だ。
その上、変わり種ときている。
とは言え、一体、誰が、怪談物語は夏場が相場と決めたのだろうか?
単に、暑い夏を、コワ~イ話しで、ゾッとして、暑気払いをしようと言う目論みだろう。
それゆえ、ただ、夏の盛りに時期が設定されたに過ぎない。
ならば、それは、物語に比重が置かれているのではなく、暑気払いの方に比重が置かれているのだ。
むしろ、この方が邪道だろう。
そこで、宮部みゆきさんは、この物語の中で、冬にこそ百物語は相応しいと書いていた。
それも、年の明ける前の大晦日が良いと言うのだ。
まあ、一年のケジメにしようと言うことだろう。
人間、日々の暮らしに埋没してしまって、大過なく過ごしていれば、どんな人間だって、徐々に心がふやけてくるのは仕方がない。
それを、どこかで引き締めなければならない。
心の煤払いだ。
いやもう、怪談話しの背景にある世の中の不条理、人間の強欲さや酷薄さ、嫉妬や怨嗟、それら、巷の不思議、どうしようもない人の業などを、改めて怪談話しにより振り返ることで自らの襟を正すのだ。
怪談話しは人を神妙にさせる。
いわば、過ぎていく今年一年に対して、年の押し迫った百物語は、まさに、「お浄めの塩」と言うことだろうか?
そして、清らかな気持ちで、新しい年を迎える。
それを、物語では、大晦日の怪談話しでやってみようというのだ。
全く、これなら、冬の寒気の中、身体だけでなく、さらに心までもが縮上がるに違いない。
なるほど、おじさん、夏場の怪談物語より、この考えの方が穿った理屈のように思える。
合点。
で、おじさん、季節外れと思いながらも、本書を取り上げることにしたのだ。
さて、物語についてだ。
神田三島町の袋問屋、三島屋のお嬢様 おちかは、何度か、この古本屋で取り上げているので、覚えておられる人も多いだろう。
花も恥じらう18才、若い男性なら、眼を合わせるだけで、生唾を飲みこみ、ポッと顔が上気しかねない、いやもう、飛び切りの美形だ。
そんなお嬢様が、変わり百物語の主人として登場してくるという風変わりな設定の物語だ。
書き継がれて、この変わり百物語シリーズは、今作品で、都合3作目になる。
確か、おじさん、前作を取り上げた時には、この主人公のおちかが、百物語に挑戦し続けるなら、ちょうど、一編一話、オムニバス形式の短編が百話になるまで、この物語は続くことになるのでは?と思った。
もっともっと読みたい。
さすれば、少なくとも10冊くらいのシリーズになるはずだ。
そんなことで、次作を期待している旨のことを書いたことを覚えている。
まあ、今回は、第3作目で、ざっと数えてみれば、シリーズが始まってから、30話ほど怪談話しが語られてきている。
だから、このシリーズは、まだまだ続くことになる。
いやはや、楽しみだ。
それはさておき、繰り返しになるかも知れないが、おじさん、まず、この変調百物語が始まった経緯について語っておかなければならない。
実は、まだ18才のうら若きお嬢さんだが、おちかには、過去に耐えがたい心の傷があった。
婚礼を目前に控えた時のことだ。
その幸せのまっ盛りに、幼馴染が、いいなずけを殺害してしまうという、とんでもない事件が起こってしまう。
手に掛けた方も、掛けられた方も、おちかにとっては、幼い頃から仲良くしていた若者だった。
だから、二人の心の行き違いの原因となった自分が許せなかった。
悲しみよりも、強い自責の念にかられたのだ。
そして、自己嫌悪をし、落ち込んだ。
ふさぎ込むおちかを見て、彼女の両親は、気分転換にと、厭な思いの残る実家の川崎の旅籠屋から、江戸で袋物を手広く商いしている叔父の家に預けることにしたのだ。
ところが、この叔父もいささか変わり者だ。
叔父の考えは、こんなことだった。
……
「おちかが、部屋で、誰にも会わず、内に閉じこもり、陰々鬱々としているのは良くない。
むしろ、世間に起こる様々な不思議な出来事や、時には悲惨な出来事を知ることで、不幸は自らの身だけに降りかかるものではない。
世の中には、悲しみやつらいことは、如何にもありふれたことだ。
誰もが、様々な耐え切れない出来事を乗り越えることで、何とか生きている。
そんな当たり前の理(ことわり)を知り、強く生きる力を呼び覚まして欲しい。」
という密かな思いがあった。
いやはや、ただただ聞くことで、相手の心の重荷がいささかでも軽くなる。
その話し手の安らぎの温もりが、今度は、おちかの心を優しく癒やすのではないか?
おちかにも、何となく、叔父の心配りを察することができたため、このブログの冒頭に挙げたような風変わりな百物語が、叔父の発案で始まることになった。
ところが、今や、この変調百物語は江戸の話題になり、おちかは、一躍、噂の人になっている。
いやもう、次から次へと、様々な人たちが入れ替わり、立ち替わり、神田三島屋の《黒白の間』を訪れ、おちかの前で、自らが体験した、世にも妖しい話しを語っていく。
その一々が、様々な人の数奇な人生を綾なし、興味が尽きない。
今回は、先に書いたように、両国の札差 長次郎が登場し、おちかを、大晦日の百物語に招待すると言う新しい趣向まであった。
おちかは、初めて、百物語に纏わることで、三島屋を出ることになったのだ。
実は、おちかは、その道すがら、自ら怪奇な出来事に出合うのだ。
いやあ、おじさん、本当は、いちいち、その興味深い百物語の内容を書き綴りたいところだが、そこは、グッと抑えねばならない。
本書を読まれる人にとって、手垢のついた怪談話し程、つまらないものはないだろう。
ところで、おじさん、この本の百物語で語られるような類似の体験は、幸か不幸か、一度も出合ったことがない。
いやもう、実際に体験したことのある人は、何度でも、妖しい体験に頻繁に出合うことになるらしい。
どうも、怪奇体質と言うのがあるようだ。
例えば、虫の知らせや霊を見たと言うような話しなら、おじさんの周辺には、五万とある。
しかしながら、おじさんは、いたって、科学的、合理的に物を考えるドライなタイプのようだ。コホン!
実は、おじさん、怪奇現象とか、怪談に登場してくる幽霊やお化け、霊魂など、ほとんど信じていない。
どちらかと言えば、それらは、「心のお化け」が、もくもくと妄想のように創出するものと考えている。
怪奇とは、どこか、心の深奥の暗い部分と結びついているのではないだろうか?
それは、むろん、怪奇現象として、リアルに実感される場合もあるだろうし、その心の暗い部分が語りかける創作物語の場合もあるのではないか?
この物語のおちかのように、こうした百物語が、聞き手の自らの心の闇の部分に、ある意味、何らかの光を当てることにもなるだろう。
一方では、話し手として、怪奇な物語を語ることにより、精神的なカタルシスを果たすことにもなるかも知れない。
とにもかくにも、百物語は、人間の心の深奥と深く結びついているのだろう。
それは、換言すれば、人間の業と言うものかも知れない。
いやはや、フロイドの夢判断ではないが、百物語も、臨床心理学における心理療法の有効な手段となるかも知れない。エヘヘ!
ところで、物語で指摘されていたが、こうした怪奇な現象が最も起こりやすい場所があるらしい。
深夜の墓場とか、凄惨な犯罪のあった場所、長い間、人が住まなくなって朽ち果てた建物などを思い浮かべる人もいるかも知れないが、それは、おじさんたちのごく身近にあり、毎日のように利用している《橋》であるらしい。
当然、何かと何かを繋げることが橋の役割だが、むろん、それは、あの世とこの世を渡す三途の川の橋にも繋がるとのことだ。
だから、橋が怪奇現象の最も起こりやすい場所になるそうだ。
それもど真ん中が良い。
端は駄目らしい。アハハ!
どうしても怪奇現象に出合えないおじさん、一度、橋だけに、願を掛けて見ようかな。
※百物語とは、江戸時代に流行した怪談話しの集会である。
大勢の人が集まり、順番に怪談話しを、一つずつ披露していく。
そう言う場では、百本のロウソクを灯し、一話が終わると、一本のロウソクを吹き消し、そうして、百まで語り終え、暗闇が訪れると、何がしか怪異が起こると言われている。
※ヤフーブログにて 2015年3月23日 アップ
……
お客様、三島屋の百物語は、この黒白(こくびゃく)の間(ま)だけのお話しでございます。
聞いて聞き捨て、語って語り捨てを決まりとしております。
また、お客様のお名前や、ご身分を明かされる必要もありません。
お話しの中に出てくる方のお名前も同様でございます。
…… 【本文より抜粋】
季節外れの怪談話しで申し訳ない。
いやはや、冬の百物語だ。
その上、変わり種ときている。
とは言え、一体、誰が、怪談物語は夏場が相場と決めたのだろうか?
単に、暑い夏を、コワ~イ話しで、ゾッとして、暑気払いをしようと言う目論みだろう。
それゆえ、ただ、夏の盛りに時期が設定されたに過ぎない。
ならば、それは、物語に比重が置かれているのではなく、暑気払いの方に比重が置かれているのだ。
むしろ、この方が邪道だろう。
そこで、宮部みゆきさんは、この物語の中で、冬にこそ百物語は相応しいと書いていた。
それも、年の明ける前の大晦日が良いと言うのだ。
まあ、一年のケジメにしようと言うことだろう。
人間、日々の暮らしに埋没してしまって、大過なく過ごしていれば、どんな人間だって、徐々に心がふやけてくるのは仕方がない。
それを、どこかで引き締めなければならない。
心の煤払いだ。
いやもう、怪談話しの背景にある世の中の不条理、人間の強欲さや酷薄さ、嫉妬や怨嗟、それら、巷の不思議、どうしようもない人の業などを、改めて怪談話しにより振り返ることで自らの襟を正すのだ。
怪談話しは人を神妙にさせる。
いわば、過ぎていく今年一年に対して、年の押し迫った百物語は、まさに、「お浄めの塩」と言うことだろうか?
そして、清らかな気持ちで、新しい年を迎える。
それを、物語では、大晦日の怪談話しでやってみようというのだ。
全く、これなら、冬の寒気の中、身体だけでなく、さらに心までもが縮上がるに違いない。
なるほど、おじさん、夏場の怪談物語より、この考えの方が穿った理屈のように思える。
合点。
で、おじさん、季節外れと思いながらも、本書を取り上げることにしたのだ。
さて、物語についてだ。
神田三島町の袋問屋、三島屋のお嬢様 おちかは、何度か、この古本屋で取り上げているので、覚えておられる人も多いだろう。
花も恥じらう18才、若い男性なら、眼を合わせるだけで、生唾を飲みこみ、ポッと顔が上気しかねない、いやもう、飛び切りの美形だ。
そんなお嬢様が、変わり百物語の主人として登場してくるという風変わりな設定の物語だ。
書き継がれて、この変わり百物語シリーズは、今作品で、都合3作目になる。
確か、おじさん、前作を取り上げた時には、この主人公のおちかが、百物語に挑戦し続けるなら、ちょうど、一編一話、オムニバス形式の短編が百話になるまで、この物語は続くことになるのでは?と思った。
もっともっと読みたい。
さすれば、少なくとも10冊くらいのシリーズになるはずだ。
そんなことで、次作を期待している旨のことを書いたことを覚えている。
まあ、今回は、第3作目で、ざっと数えてみれば、シリーズが始まってから、30話ほど怪談話しが語られてきている。
だから、このシリーズは、まだまだ続くことになる。
いやはや、楽しみだ。
それはさておき、繰り返しになるかも知れないが、おじさん、まず、この変調百物語が始まった経緯について語っておかなければならない。
実は、まだ18才のうら若きお嬢さんだが、おちかには、過去に耐えがたい心の傷があった。
婚礼を目前に控えた時のことだ。
その幸せのまっ盛りに、幼馴染が、いいなずけを殺害してしまうという、とんでもない事件が起こってしまう。
手に掛けた方も、掛けられた方も、おちかにとっては、幼い頃から仲良くしていた若者だった。
だから、二人の心の行き違いの原因となった自分が許せなかった。
悲しみよりも、強い自責の念にかられたのだ。
そして、自己嫌悪をし、落ち込んだ。
ふさぎ込むおちかを見て、彼女の両親は、気分転換にと、厭な思いの残る実家の川崎の旅籠屋から、江戸で袋物を手広く商いしている叔父の家に預けることにしたのだ。
ところが、この叔父もいささか変わり者だ。
叔父の考えは、こんなことだった。
……
「おちかが、部屋で、誰にも会わず、内に閉じこもり、陰々鬱々としているのは良くない。
むしろ、世間に起こる様々な不思議な出来事や、時には悲惨な出来事を知ることで、不幸は自らの身だけに降りかかるものではない。
世の中には、悲しみやつらいことは、如何にもありふれたことだ。
誰もが、様々な耐え切れない出来事を乗り越えることで、何とか生きている。
そんな当たり前の理(ことわり)を知り、強く生きる力を呼び覚まして欲しい。」
という密かな思いがあった。
いやはや、ただただ聞くことで、相手の心の重荷がいささかでも軽くなる。
その話し手の安らぎの温もりが、今度は、おちかの心を優しく癒やすのではないか?
おちかにも、何となく、叔父の心配りを察することができたため、このブログの冒頭に挙げたような風変わりな百物語が、叔父の発案で始まることになった。
ところが、今や、この変調百物語は江戸の話題になり、おちかは、一躍、噂の人になっている。
いやもう、次から次へと、様々な人たちが入れ替わり、立ち替わり、神田三島屋の《黒白の間』を訪れ、おちかの前で、自らが体験した、世にも妖しい話しを語っていく。
その一々が、様々な人の数奇な人生を綾なし、興味が尽きない。
今回は、先に書いたように、両国の札差 長次郎が登場し、おちかを、大晦日の百物語に招待すると言う新しい趣向まであった。
おちかは、初めて、百物語に纏わることで、三島屋を出ることになったのだ。
実は、おちかは、その道すがら、自ら怪奇な出来事に出合うのだ。
いやあ、おじさん、本当は、いちいち、その興味深い百物語の内容を書き綴りたいところだが、そこは、グッと抑えねばならない。
本書を読まれる人にとって、手垢のついた怪談話し程、つまらないものはないだろう。
ところで、おじさん、この本の百物語で語られるような類似の体験は、幸か不幸か、一度も出合ったことがない。
いやもう、実際に体験したことのある人は、何度でも、妖しい体験に頻繁に出合うことになるらしい。
どうも、怪奇体質と言うのがあるようだ。
例えば、虫の知らせや霊を見たと言うような話しなら、おじさんの周辺には、五万とある。
しかしながら、おじさんは、いたって、科学的、合理的に物を考えるドライなタイプのようだ。コホン!
実は、おじさん、怪奇現象とか、怪談に登場してくる幽霊やお化け、霊魂など、ほとんど信じていない。
どちらかと言えば、それらは、「心のお化け」が、もくもくと妄想のように創出するものと考えている。
怪奇とは、どこか、心の深奥の暗い部分と結びついているのではないだろうか?
それは、むろん、怪奇現象として、リアルに実感される場合もあるだろうし、その心の暗い部分が語りかける創作物語の場合もあるのではないか?
この物語のおちかのように、こうした百物語が、聞き手の自らの心の闇の部分に、ある意味、何らかの光を当てることにもなるだろう。
一方では、話し手として、怪奇な物語を語ることにより、精神的なカタルシスを果たすことにもなるかも知れない。
とにもかくにも、百物語は、人間の心の深奥と深く結びついているのだろう。
それは、換言すれば、人間の業と言うものかも知れない。
いやはや、フロイドの夢判断ではないが、百物語も、臨床心理学における心理療法の有効な手段となるかも知れない。エヘヘ!
ところで、物語で指摘されていたが、こうした怪奇な現象が最も起こりやすい場所があるらしい。
深夜の墓場とか、凄惨な犯罪のあった場所、長い間、人が住まなくなって朽ち果てた建物などを思い浮かべる人もいるかも知れないが、それは、おじさんたちのごく身近にあり、毎日のように利用している《橋》であるらしい。
当然、何かと何かを繋げることが橋の役割だが、むろん、それは、あの世とこの世を渡す三途の川の橋にも繋がるとのことだ。
だから、橋が怪奇現象の最も起こりやすい場所になるそうだ。
それもど真ん中が良い。
端は駄目らしい。アハハ!
どうしても怪奇現象に出合えないおじさん、一度、橋だけに、願を掛けて見ようかな。
※百物語とは、江戸時代に流行した怪談話しの集会である。
大勢の人が集まり、順番に怪談話しを、一つずつ披露していく。
そう言う場では、百本のロウソクを灯し、一話が終わると、一本のロウソクを吹き消し、そうして、百まで語り終え、暗闇が訪れると、何がしか怪異が起こると言われている。
※ヤフーブログにて 2015年3月23日 アップ
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