水晶万年筆から生み出される言葉 『水晶万年筆』より ☆☆☆
『水晶万年筆』 著者 吉田 篤弘
不思議に心そそられる言葉というのがある。
この『水晶万年筆』という言葉も、そうだろう。
思わず、どんなものか頭の中で想像して、色々に思いを巡らせてしまう。
過去の懐かしい思い出に結びつくこともあるし、突然、頭の中に、想像もしなかった異質な物語世界が浮かんでくるような気にもなる。
さしずめ、水晶万年筆は、どんな人が使用し、そこからどんな言葉が紡ぎ出されるのだろうか?
それは、これまで聞いたことのないような物語に違いない。
そう考えるだけで、何かしら、ゾクゾクするような魅惑的な物語世界の扉を開くような気になるのだ。
実際に本の表紙を開かなくとも、様々に頭の中にいろんな思いが駆け巡ってくる。
実は、おじさん、本を読み始めるまで、しばらくの間、表紙を眺めて、ページを繰ることもなく、ぼんやりと物思いに耽ってしまっていた。
昔は言霊と言われたそうだが、確かに言葉には不思議なパワーがある。
前に水晶という言葉が無くても、おじさんにとって、万年筆という言葉だけでも充分にインパクトがある。
いやもう、誰がこう言い出したのか分らないが、翻訳語としたら、見事な翻訳ではないかと思う。
「万年」が、永遠性を感じさせるから、そのペン先から生まれ、描き出される言葉は、何か重々しい神秘が宿るような気がするではないか?
ボールペンではこうはいかない。
おじさん、この万年筆という筆記用具に、昔から、ずっと心惹かれていた。
いやもう、おじさん、もともと文具好きだ。
使いもしないのに、色々な文具を買ってきては、すぐに引き出しを一杯にしてしまう。
それでも、万年筆は別格だった。
文具品では、飛び切り高額だから、そう何本もコレクションするわけにはいかない。
まあ、それだけに、より万年筆には思い入れが強くなるのかも知れない。
おじさんが最初に勤めた会社には、この万年筆マニアがいた。
早稲田出のインテリだったが、とにかく、喧嘩早い人だったと記憶している。
飲み屋での武勇伝は数限りない。
それはともかく、この人が、高価な万年筆を何本となくコレクションしていた。
モンブランに、ペリカン、ウォーターマン、パーカー、シェイファーなどの輸入品、漆に蒔絵を使ったパイロットなどの国産品もあった。
いずれにしろ、1本数万円は下らないものばかりだっただろう。
それらの万年筆を納める専用のケースも用意していた。
それは、小ぶりのアタッシュケースをわざわざ万年筆専用にアレンジしたものだった。
ケースを開けると、その中には、ビロードの窪みに収まった高級万年筆がずらりと並んでいた。
仕事は、コピーライターだったので、いつもそれを持ち歩いている。
そして、そのアタッシュケースから、おもむろに、その日の気分で万年筆を選び出し、これも特注の原稿用紙を使い、コピーを書き始めるのだ。
この人の、クライアントでのプレゼンテーションは、まさに圧巻だった。
このアタッシュケースを持ち、荻原朔太郎の全集を小脇に抱えて、クライアントに乗り込む。
プレゼンの席に着くやいなや、朔太郎の本を机の左肩にドンと置き、おもむろに、例のアタッシュケースを開き、これ見よがしに万年筆を取り出すのだ。
そして、自らのコピーの原稿を、その万年筆で指示しながら、説明をする。
この時点で既に勝負あり。
気の弱いクライアントの担当者などは、これで毒気を抜かれて、凄く従順な人になってしまうのだ。
中には、コピーに注文をつける人もいるが、「これでいいんや!」という、この人の一喝に、概ね黙り込んでしまう。
まさに朔太郎、月ならず、「得意先に吠える」というやつだ。
まあ、おじさんも、別にマネをしたわけではないが、社会人になってからは、ボールペンなどは一切使わず、万年筆で押し通した。
断わっておくが、おじさんなどが仮りに万年筆を使用したからと言って、何ほども、クライアントの担当者にプレッシャーを与えることもない。
それに、「万年筆」ではなく、「万年平社員」のおじさんが、そんなに高価な万年筆を購入できるはずもない。
せいぜい、一番安い物を1本所有するのが関の山だ。
最初は、量販タイプのパーカーを何本か使っていたが、途中からペリカンに替えた。
カートリッジよりも、ねじ式のインキ壺からの吸入タイプの方が使い勝手が良かったからだ。
とは言え、持ち手の軸がマーブル模様の1万円程度の物だ。
ペリカンでは、後ろから2番目に安い。
それを、大切に5年は使う。
別に使い潰したというのではないが、どんなに気をつけていても、それ位で紛失してしまうのだ。
ところが、最後の物は10年以上使っていた。
リタイアしても、ビジネスのニオイのするものは、きれいさっぱり廃棄したが、この万年筆と筆入れ、システム手帳だけは、何となく捨てきれずに手元に残している。
実は、ペリカンの廉価な万年筆なので、ペン先は金ではなく、金メッキなのだ。
10年も経てば、そのメッキ部分がすっかり剥げてしまって、銀ペン、いやステンレスペンになってしまっている。
ペン先も、気の毒に、おじさんの強い筆圧のせいか、先端の部分は半分斜めにそぎ落とされたように、すっかり擦り減っている。
それでも、おじさんにとっては、手に馴染んで、書き味は抜群だ。
キャップのクリップの部分も錆びついて、ペリカンの顔には醜く錆びが浮き立っている。
いやはや、ウラびれたペリカンだ。
それでも、この万年筆だけは、おじさん、墓場まで持って行こうと思っている。
実は、おじさん、いつかは買ってやるぞと思っていた万年筆があるのだ。
憧れのモンブランだ。
ただし、作家などがよく愛用している、あの大仰なものではない。
もっと小ぶりの特別仕様《ショパン》と名付けられたものだ。
ビジネスで使うには、一般的なモンブランよりも、若干、スリムで携帯もしやすく、幾分安いものだが、おじさんなどには中々手が出なかった。
まとまった金が入れば買ってやろうと、何度も、店頭で逡巡したが、結局、一度も手にすることができなかった。
縁がなかったのだろう。
これだけは、仕事よりも心残りだ。
エヘヘ!
さて、話しはおじさんの万年筆談義になってしまった。
話題を戻そう。
いやはや、『水晶万年筆』という言葉の持つ不思議な力の話しだ。
この本によると、実際に、商品として存在していたという。
ずっと昔、金属ペンがポピュラーになる前には、ガラスペンと言うのがあった。
それと同様に、この万年筆のペン先は、ガラスでできていたらしい。
それでは、持ち運びなど、とんでもないなと思う。
机の引き出しに大事にしまい込んで、使用する時にだけ、そっと取り出し、細心の注意で使用しなければならない。
それにしても、繊細なガラスのペン先から生まれる文字はどんなものだろうか?
そこから描き出される言葉は、何か得体の知れない物語を紡ぎ出すに違いないと思えてきた。
実は、この本の物語は、ひょっっとすれば、この水晶万年筆で書かれたのではないだろうか?
そう思えてくる。
というのは、おじさんにとって、この本で繰り広げられている物語は、いやもう、不思議な言葉とレトリックに溢れているからだ。
言葉が不思議な魔力を持って名状しがたい独特の世界を構成しているのだ。
まさに、これは、吉田篤弘ワールドと言って良いかも知れない。
よく村上春樹ワールドと言われるように、このワールドと呼ぶべき世界を創り出すには、並々ならぬ才能が要求される。
おじさんには、この人の言葉を紡ぎ出す才能は、「散文の妖しい詩人」と呼ぶに値すると思ったりしている。
いかに、言葉が魔力を持って不思議な世界を紡ぎ出しているか、幾つか抜き出してみることにする。
*水が笑うと、あの本に書いてあった。水が笑うことなどあるだろうか?
毎朝、決めて、律儀に水盤を眺めていたが、依然として、水は微動だにしなかった。
窓の外では、間断なく雨が降って、それは、やはり笑うというよりも、延々と続く昔語りのようだった。
思えば、街を教えられたのも、あの本だ。
紐解いた感触だけが手に残り、書名も作者も記憶になかった。
ページから立ち上る香ばしく甘い匂いや僅かに浮き出たシミの位置さえ蘇るのに、その表紙が、どんな意匠であったか、どのような色合いであったかも思い出せない。
ただ、本の中に現れた街の名が印象的で、梯子橋と打たれた活字のヨレ具合まで、目に焼き付いていた。
その名を、偶然、水飲みの創作ノートに見つけた時、「物語を探す人は、遅かれ早かれ、水に出会うでしょう」
水飲みは、そう言って、喉を鳴らし、コップの中の冷えた水を、気持ち良さそうに飲み干した。
*街など、所詮、人が造ったもの。
当然、様々な不条理に満ち、だからこそ、様々な脅威に満ちている。
ついでに、様々な魅惑の扉を持っている。
そうした事象を研究するのが、私の仕事。
誰に頼まれた訳でもないが、もう、金輪際、頼まれたことには一切答えぬ。
そう決めた。
私は、もう、あちらこちらから充分頼まれ、貴重な時間を彼らに譲り渡した。
もう、充分。
もう、いい。
あれだけ譲ったのだから、今度は、譲り返して欲しい。
譲り返すなどと言う言葉はないか。
いや、ないならないで結構。
ないのなら、今、この場で作る。
これも、私の第二の研究テーマの一つ。
ない言葉を作る。
それで、私だけの辞書を作り、常時、更新しながら、密かに愛用する。
いかん、いかん、行こう。
好奇心が急速に繁殖し始め、寄り道の範疇を大きく逸脱しそうになった。
寄り道が高じれば、道草と化す。
道草とて、繁茂すれば、ジャングルのように行く手を阻む。
そうなったら最後、それはもう、散歩と言えなくなる。
あっけなく、道草の蔓に絡め取られ、見知らぬ扉の向こうに連れ去られる。
古今東西、扉は別世界に通じているものと相場が決まっている。
そして、別世界というものは、一旦紛れ込むと、なかなか、こちらに戻って来られない。
何事にせよ、戻って来るための扉を探すのは、実に大変なのだ。
と、これまた、相場が決まっている。
以上は、夢見がちであった私の少年時代の夢想である。
ただし、扉の向こうに別世界があると言うのは、決して、詩的表現ではない。
極めて、現実的な言葉である。
【本文より抜粋】
どうだろうか?
いやはや、 この作家が紡ぎだす言葉の魔力の片鱗の一端を感じていただけただろうか?
この本は、脈絡がありそうで、脈絡のない、6つの小さな物語から成っている。
それらは、全て、おじさんたちが普段暮らしている街に、不思議な別世界を見い出すという物語だ。
目にしたものを、言葉に置き換えたら、それは自分だけの不思議な街が息づいていたということになる。
ただし、それは、特別な才能を持つ人だけの不思議な言葉の魔力により可能になる。
おじさん、この本の物語は、きっと、作家が、大切に保管していた水晶万年筆によって、密かに描き出されたものだと、今では確信している。
それは、実際に現存するのだ。
実は、あのコピーライターの先輩の高級万年筆から紡ぎだされる言葉にも魔力があった。
つまらないフレーズに思えるその言葉にも、妙に心を動かす力があったのだ。
おじさん、思うのだが、世の中には、それは非常に限られた人たちだと思うが、言葉により、現実と全く別な世界を創り出すことのできる才能を持つ人がいると思う。
この吉田篤弘さんが、その一人だと思うのだ。
この本には、別な世界に繋がる扉がちりばめられている。
どの扉を開くのも全く自由だ。
一度、この吉田篤弘ワールドに足を踏み入れてみませんか?
※ヤフーブログにて 2013年11月24日 アップ
不思議に心そそられる言葉というのがある。
この『水晶万年筆』という言葉も、そうだろう。
思わず、どんなものか頭の中で想像して、色々に思いを巡らせてしまう。
過去の懐かしい思い出に結びつくこともあるし、突然、頭の中に、想像もしなかった異質な物語世界が浮かんでくるような気にもなる。
さしずめ、水晶万年筆は、どんな人が使用し、そこからどんな言葉が紡ぎ出されるのだろうか?
それは、これまで聞いたことのないような物語に違いない。
そう考えるだけで、何かしら、ゾクゾクするような魅惑的な物語世界の扉を開くような気になるのだ。
実際に本の表紙を開かなくとも、様々に頭の中にいろんな思いが駆け巡ってくる。
実は、おじさん、本を読み始めるまで、しばらくの間、表紙を眺めて、ページを繰ることもなく、ぼんやりと物思いに耽ってしまっていた。
昔は言霊と言われたそうだが、確かに言葉には不思議なパワーがある。
前に水晶という言葉が無くても、おじさんにとって、万年筆という言葉だけでも充分にインパクトがある。
いやもう、誰がこう言い出したのか分らないが、翻訳語としたら、見事な翻訳ではないかと思う。
「万年」が、永遠性を感じさせるから、そのペン先から生まれ、描き出される言葉は、何か重々しい神秘が宿るような気がするではないか?
ボールペンではこうはいかない。
おじさん、この万年筆という筆記用具に、昔から、ずっと心惹かれていた。
いやもう、おじさん、もともと文具好きだ。
使いもしないのに、色々な文具を買ってきては、すぐに引き出しを一杯にしてしまう。
それでも、万年筆は別格だった。
文具品では、飛び切り高額だから、そう何本もコレクションするわけにはいかない。
まあ、それだけに、より万年筆には思い入れが強くなるのかも知れない。
おじさんが最初に勤めた会社には、この万年筆マニアがいた。
早稲田出のインテリだったが、とにかく、喧嘩早い人だったと記憶している。
飲み屋での武勇伝は数限りない。
それはともかく、この人が、高価な万年筆を何本となくコレクションしていた。
モンブランに、ペリカン、ウォーターマン、パーカー、シェイファーなどの輸入品、漆に蒔絵を使ったパイロットなどの国産品もあった。
いずれにしろ、1本数万円は下らないものばかりだっただろう。
それらの万年筆を納める専用のケースも用意していた。
それは、小ぶりのアタッシュケースをわざわざ万年筆専用にアレンジしたものだった。
ケースを開けると、その中には、ビロードの窪みに収まった高級万年筆がずらりと並んでいた。
仕事は、コピーライターだったので、いつもそれを持ち歩いている。
そして、そのアタッシュケースから、おもむろに、その日の気分で万年筆を選び出し、これも特注の原稿用紙を使い、コピーを書き始めるのだ。
この人の、クライアントでのプレゼンテーションは、まさに圧巻だった。
このアタッシュケースを持ち、荻原朔太郎の全集を小脇に抱えて、クライアントに乗り込む。
プレゼンの席に着くやいなや、朔太郎の本を机の左肩にドンと置き、おもむろに、例のアタッシュケースを開き、これ見よがしに万年筆を取り出すのだ。
そして、自らのコピーの原稿を、その万年筆で指示しながら、説明をする。
この時点で既に勝負あり。
気の弱いクライアントの担当者などは、これで毒気を抜かれて、凄く従順な人になってしまうのだ。
中には、コピーに注文をつける人もいるが、「これでいいんや!」という、この人の一喝に、概ね黙り込んでしまう。
まさに朔太郎、月ならず、「得意先に吠える」というやつだ。
まあ、おじさんも、別にマネをしたわけではないが、社会人になってからは、ボールペンなどは一切使わず、万年筆で押し通した。
断わっておくが、おじさんなどが仮りに万年筆を使用したからと言って、何ほども、クライアントの担当者にプレッシャーを与えることもない。
それに、「万年筆」ではなく、「万年平社員」のおじさんが、そんなに高価な万年筆を購入できるはずもない。
せいぜい、一番安い物を1本所有するのが関の山だ。
最初は、量販タイプのパーカーを何本か使っていたが、途中からペリカンに替えた。
カートリッジよりも、ねじ式のインキ壺からの吸入タイプの方が使い勝手が良かったからだ。
とは言え、持ち手の軸がマーブル模様の1万円程度の物だ。
ペリカンでは、後ろから2番目に安い。
それを、大切に5年は使う。
別に使い潰したというのではないが、どんなに気をつけていても、それ位で紛失してしまうのだ。
ところが、最後の物は10年以上使っていた。
リタイアしても、ビジネスのニオイのするものは、きれいさっぱり廃棄したが、この万年筆と筆入れ、システム手帳だけは、何となく捨てきれずに手元に残している。
実は、ペリカンの廉価な万年筆なので、ペン先は金ではなく、金メッキなのだ。
10年も経てば、そのメッキ部分がすっかり剥げてしまって、銀ペン、いやステンレスペンになってしまっている。
ペン先も、気の毒に、おじさんの強い筆圧のせいか、先端の部分は半分斜めにそぎ落とされたように、すっかり擦り減っている。
それでも、おじさんにとっては、手に馴染んで、書き味は抜群だ。
キャップのクリップの部分も錆びついて、ペリカンの顔には醜く錆びが浮き立っている。
いやはや、ウラびれたペリカンだ。
それでも、この万年筆だけは、おじさん、墓場まで持って行こうと思っている。
実は、おじさん、いつかは買ってやるぞと思っていた万年筆があるのだ。
憧れのモンブランだ。
ただし、作家などがよく愛用している、あの大仰なものではない。
もっと小ぶりの特別仕様《ショパン》と名付けられたものだ。
ビジネスで使うには、一般的なモンブランよりも、若干、スリムで携帯もしやすく、幾分安いものだが、おじさんなどには中々手が出なかった。
まとまった金が入れば買ってやろうと、何度も、店頭で逡巡したが、結局、一度も手にすることができなかった。
縁がなかったのだろう。
これだけは、仕事よりも心残りだ。
エヘヘ!
さて、話しはおじさんの万年筆談義になってしまった。
話題を戻そう。
いやはや、『水晶万年筆』という言葉の持つ不思議な力の話しだ。
この本によると、実際に、商品として存在していたという。
ずっと昔、金属ペンがポピュラーになる前には、ガラスペンと言うのがあった。
それと同様に、この万年筆のペン先は、ガラスでできていたらしい。
それでは、持ち運びなど、とんでもないなと思う。
机の引き出しに大事にしまい込んで、使用する時にだけ、そっと取り出し、細心の注意で使用しなければならない。
それにしても、繊細なガラスのペン先から生まれる文字はどんなものだろうか?
そこから描き出される言葉は、何か得体の知れない物語を紡ぎ出すに違いないと思えてきた。
実は、この本の物語は、ひょっっとすれば、この水晶万年筆で書かれたのではないだろうか?
そう思えてくる。
というのは、おじさんにとって、この本で繰り広げられている物語は、いやもう、不思議な言葉とレトリックに溢れているからだ。
言葉が不思議な魔力を持って名状しがたい独特の世界を構成しているのだ。
まさに、これは、吉田篤弘ワールドと言って良いかも知れない。
よく村上春樹ワールドと言われるように、このワールドと呼ぶべき世界を創り出すには、並々ならぬ才能が要求される。
おじさんには、この人の言葉を紡ぎ出す才能は、「散文の妖しい詩人」と呼ぶに値すると思ったりしている。
いかに、言葉が魔力を持って不思議な世界を紡ぎ出しているか、幾つか抜き出してみることにする。
*水が笑うと、あの本に書いてあった。水が笑うことなどあるだろうか?
毎朝、決めて、律儀に水盤を眺めていたが、依然として、水は微動だにしなかった。
窓の外では、間断なく雨が降って、それは、やはり笑うというよりも、延々と続く昔語りのようだった。
思えば、街を教えられたのも、あの本だ。
紐解いた感触だけが手に残り、書名も作者も記憶になかった。
ページから立ち上る香ばしく甘い匂いや僅かに浮き出たシミの位置さえ蘇るのに、その表紙が、どんな意匠であったか、どのような色合いであったかも思い出せない。
ただ、本の中に現れた街の名が印象的で、梯子橋と打たれた活字のヨレ具合まで、目に焼き付いていた。
その名を、偶然、水飲みの創作ノートに見つけた時、「物語を探す人は、遅かれ早かれ、水に出会うでしょう」
水飲みは、そう言って、喉を鳴らし、コップの中の冷えた水を、気持ち良さそうに飲み干した。
*街など、所詮、人が造ったもの。
当然、様々な不条理に満ち、だからこそ、様々な脅威に満ちている。
ついでに、様々な魅惑の扉を持っている。
そうした事象を研究するのが、私の仕事。
誰に頼まれた訳でもないが、もう、金輪際、頼まれたことには一切答えぬ。
そう決めた。
私は、もう、あちらこちらから充分頼まれ、貴重な時間を彼らに譲り渡した。
もう、充分。
もう、いい。
あれだけ譲ったのだから、今度は、譲り返して欲しい。
譲り返すなどと言う言葉はないか。
いや、ないならないで結構。
ないのなら、今、この場で作る。
これも、私の第二の研究テーマの一つ。
ない言葉を作る。
それで、私だけの辞書を作り、常時、更新しながら、密かに愛用する。
いかん、いかん、行こう。
好奇心が急速に繁殖し始め、寄り道の範疇を大きく逸脱しそうになった。
寄り道が高じれば、道草と化す。
道草とて、繁茂すれば、ジャングルのように行く手を阻む。
そうなったら最後、それはもう、散歩と言えなくなる。
あっけなく、道草の蔓に絡め取られ、見知らぬ扉の向こうに連れ去られる。
古今東西、扉は別世界に通じているものと相場が決まっている。
そして、別世界というものは、一旦紛れ込むと、なかなか、こちらに戻って来られない。
何事にせよ、戻って来るための扉を探すのは、実に大変なのだ。
と、これまた、相場が決まっている。
以上は、夢見がちであった私の少年時代の夢想である。
ただし、扉の向こうに別世界があると言うのは、決して、詩的表現ではない。
極めて、現実的な言葉である。
【本文より抜粋】
どうだろうか?
いやはや、 この作家が紡ぎだす言葉の魔力の片鱗の一端を感じていただけただろうか?
この本は、脈絡がありそうで、脈絡のない、6つの小さな物語から成っている。
それらは、全て、おじさんたちが普段暮らしている街に、不思議な別世界を見い出すという物語だ。
目にしたものを、言葉に置き換えたら、それは自分だけの不思議な街が息づいていたということになる。
ただし、それは、特別な才能を持つ人だけの不思議な言葉の魔力により可能になる。
おじさん、この本の物語は、きっと、作家が、大切に保管していた水晶万年筆によって、密かに描き出されたものだと、今では確信している。
それは、実際に現存するのだ。
実は、あのコピーライターの先輩の高級万年筆から紡ぎだされる言葉にも魔力があった。
つまらないフレーズに思えるその言葉にも、妙に心を動かす力があったのだ。
おじさん、思うのだが、世の中には、それは非常に限られた人たちだと思うが、言葉により、現実と全く別な世界を創り出すことのできる才能を持つ人がいると思う。
この吉田篤弘さんが、その一人だと思うのだ。
この本には、別な世界に繋がる扉がちりばめられている。
どの扉を開くのも全く自由だ。
一度、この吉田篤弘ワールドに足を踏み入れてみませんか?
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