されど会社、たかが会社? 『七つの会議』より ☆☆☆
『七つの会議』 著者 池井戸 潤
どうも、こういう企業もの小説を読むと、気分が過去へ引き戻される。
オッ、まだ、ビジネスマンだった頃の自分が抜けていないなと驚いたりしてしまう。
まあ、何と言っても、30年近く、そのビジネスの場にいたのだから、これは仕方がないだろう。
それでも、おじさん、ビジネスの場からリタイアする時には、綺麗さっぱりこの世界からオサラバするつもりだった。
そうだな、感覚としては、会社がおじさんをリストラするのではなく、おじさんが会社をリストラしたのだというつもりだった。
とは言え、別に、真っ向から会社と対立し、ゴネて辞めたわけでもないし、会社勤めに失望したわけでもない。
自然にフェードアウトしたという感じだ。
もともと、おじさんが最後に所属していた会社は、一応、会社の形態は取るが、まあ、コンサルティング・ファームのようなものだった。
各々が、それぞれの責任で、個人として仕事を動かしていた。
つまり、会社は、単に、個人が動き易いような環境を提供するフレームでしかなかったのだ。
だから、会社を辞めるのは、至極簡単。
エヘヘ!
自分自身が、「や~めた!」と宣言すれば、それで全て、何もかも清算してしまえた。
ということで、ある日突然、おじさん、自分で引退を決めてしまった。
いやはや、どうも、会社に三下り半を渡したと言うより、ビジネスの世界で生きることに決別したと言うことだろうか?
結構、サバサバしたもので、ウェットな感慨はなかった。
だから、オフィスを出る時には、全ての未練は断ち切ってきたつもりだ。
いやいや、それ程、ご大層な未練というようなものもなかった。
ただ、もう、決して、ここには戻ってこないと思っていた。
とにかく、誠心誠意、ぐうたら猫になるつもりだったのだ。
ということで、サイドデスクの引き出しにギッシリ詰め込まれていた名刺は、申し訳ないが、全て、ハサミを入れて処分した。
会社に戻すこともなかったし、家に持ち帰ることもなかった。
どだい、ビジネス関連の人間関係は、プライベートなお付き合い以外、金輪際、ご遠慮したかった。
こちらから、積極的に連絡を取る気も更々なかった。
現役の時に作った書類やレポートなども、綺麗さっぱりゴミ袋に投げ込んだ。
シュレッダーさえしなかった。
それらは、全く自分とは関わりのないものに見えていた。
社外への退社の挨拶は、ほぼ一斉メールと電話で済ましてしまった。
送別のお誘いにも出かけることもなかった。
これは、在籍していた会社でも同じだ。
確か、おじさんの好きな、ありふれた板チョコを、一人一人手渡して回り、「お世話になりました」と礼を述べ、一礼して、さっさと会社を出た。
それっきり、会社に行ったことはないし、以後の事務的な連絡以外は、ほぼ、こちらから連絡を取ったこともない。
と言うよりは、それからは、会社どころか、決して、ビジネスの世界には足を踏み入れていないのだ。
清々していると言うよりも、サバサバした感じだ。
これで、後顧の憂いなしと言うか、前だけ向いてられると思っていた。
かくて、ぐうたら猫の自由を獲得したのだ。
まあ、その時考えたのだが、大切なことは、人生は、その時その時で生産していくのがベストだということだ。
言い換えれば、今を生きているその時々を、如何に収支トントンに帳尻を合わせていくかということでもある。
上手く仕事をやれば、その時しっかり賞賛してもらえば良い。
業績を上げたなら、その時きっちりお給料をいただけば良い。
同僚の手助けをしたなら、その分だけお酒を奢ってもらえば良い。
新人の面倒をみたなら、苦手で面倒な書類の整理を手伝ってもらえば良い。
これでチャラ、満足して、帳尻を合わせたらどうだろうか?
やった、やらないの、できた、できないの、そんな、過ぎたことを余り気にしない。
こだわらなくてもいいように、今をウィン・ウィンの関係に持ち込む。
そう考えたら、会社の枠組みも、結構、気軽で良いものだし、何も拘泥されるものでもない。
こだわらなければ、後悔や恨みは残らない。
いつでも真っ白で、ただただ、次の世界に飛び込んでいけるのではないか?
いやはや、そんなに深刻に考えないで、ビジネスというフィールド、会社という道具を使いこなして、人生を楽しんでいるというくらいに考えたらどうだろう。
言わば、ビジネスの場がゴルフ場、会社がゴルフ倶楽部やボールだ。
仕事はゴルフのトーナメントゲームで、その成果はスコアと言うことになる。
所詮、スコアが良かったり、悪かったりしても、その場限り。
さっさとプレイの代金を支払ってしまえば、それでリセットだ。
ゴルフが、性質(たち)に合わないとなれば、いくらでも、他のスポーツを始め、やることはある。
まあ、人間、そんなに簡単には、割り切れないだろうが、概ね、会社勤めとは、こんな姿勢で臨めば良いのではないかと思う。
だから、リタイアする時は、0(ゼロ)である。
住む世界が変わってしまえば、あれ程関わっていたビジネスの世界の価値観や、会社における面子やプライドなんて、それ程価値を持たないものになってしまう。
これでいいではないか?
おじさんたちは、どの道、今を生きなければならないのだから…。
ところが、どうも、この小説を読んでいると、悲しいかな、多くの人は、ビジネスの場に身を置いていると、「たかが会社、されど会社」と言うような、今一つ煮え切らない宙ぶらりんの状況に置かれてしまうようだ。
リタイアしてしまったおじさんはともかく、その世界で今生きている当事者にとって、会社という存在は随分人生を規定するものらしい。
とにもかくにも、現実はこんなものかも知れない。
まあ、おじさんはおじさんの考え、今、現役で働いている会社人にとって、この小説は、「自分にとって、会社とは?」、「会社で働くとは?」と、どんな意味を持つものかを改めて考えてみる良い機会を与えてくれるかも知れない。
物語はこうだ。
大手電機メーカーの子会社で、電気製品を中心とした業務用備品を取り扱う中堅企業が舞台となっている。
あるぐうたら万年係長が、自らの部署のやり手上司を、パワハラを理由に企業内の職場環境改善委員会に訴えることになる。
誰が見ても、当たり前にぐうたらを叱責されているだけで、その非がどちらにあるかは明らかだった。
その訴えは理不尽で却下されるだろうと思われていた。
案に反して、やり手課長の方が処罰されてしまうことになる。
ところが、このパワハラ劇の裏には、行き過ぎた営業により、不正に手を染めた課長の不祥事を表沙汰にせず、葬り去ろうとする会社の意図が働いていたのだ。
実は、その不正は、会社ぐるみでの不良品納入を覆い隠すための隠蔽工作の一環だった。
コストダウンを計るために、仕様設計書に書かれた規定の強度を持たないパーツを使った製品が、長年多くの販売先に納品されてきたのだ。
状況によれば、大事故さえ発生しかねない。
本来なら、即座に製品リコールと言うことになるが、そうなれば、会社の存続に係わる大きな被害を蒙る。
課長の更迭は、まさに、口封じのためのトカゲのしっぽ切りだった。
しかし、ことはこれだけでは収まらなかった。
社内の出世競争による足の引っぱり合いのあおりを受けて、不正の事実が暴露されることとなり、やがて、この隠蔽工作の黒幕が徐々に明らかになってくるのだ。
その根っこは、会社の上層部にまで及んだ。
まさに、それは、ノルマ達成に血道を上げる企業体質そのものに病根があったのだ。
いやはや、会社ぐるみの隠蔽体質は、親会社の無理なノルマ達成の強要に翻弄される子会社の悲劇そのものだった。
そのあおりを受けて、熾烈なノルマ達成に奔走する社員たち。
やがて、企業として、最も重要なコンプライアンス(遵法意識)は忘れ去られ、目標達成のためには何をしても許されるという企業風土が醸成されていくことになる。
そうした土壌の中で、日々会社のために、強いては自分や家族を守るために、不正に手を染めて行かざる得ない会社人間の悲哀が描かれていく。
皆、ノルマを達成しても、次には、さらにそれ以上のノルマが課せられてくることは分かっている。
そこに、やりきれなさや空しさも感じている。
さらに、何のために、そのノルマの達成に狂奔しなければならないのかの理由さえも判然としないのだ。
知らないままに、会社の体質にどっぷりと浸かり込んでしまっている。
家族のためと言う大義名分も、その家族を省みる余裕もない状況なら、確実に家庭は倦んで行かざる得ない。
そんなことを漠然と意識しながらも、会社組織の中で何とか泳いで行くことに懸命になることから逃れられない。
うすうす、これで一生を終えてしまうのではないかという不安も頭をよぎってくる。
「俺の人生とは、一体、何なんだ!」
こんな会社人としての群像が生々しく描かれていくのだ。
いやはや、「たかが会社、されど会社」。
この解けない二律背反の命題に、日々、のたうち回ることになる。
まあ、「たかが会社…」と言うのは、こういうことだろう。
所詮、会社は、労働に対してお金を稼ぐ場、運良く出世して、地位と名誉をを得たとしても、それが何ほどのものだろう。
そんなことに血道を上げて、何が残るというのだ。
結局、退社する時が来るまで、会社にしがみついているだけではないか?
そこにあるのは、虚しさだけだ。
それは、分かっているけれど、会社という場を失くせば、一体自分に何ができるのだろうか?
それを、直視するのが怖い。
まだ、どうあろうと、日々、夢中になって会社から与えられたノルマを、ガムシャラにこなしている方がましだ。
その方が、家族も安心するに違いない。
まあ、ここまで考えが巡れば、「…されど会社」と言うことだろうか?
どうも、これでは、蟻地獄にはまってしまうようだ。
何とか、穴の斜面で、もがき続けられている時は良いが、力尽きれば、ずるずると底に落ち込んで、蟻地獄の餌食になってしまう。
トホホ!
おじさん、いっそのこと、このフレーズをヒックリ返してしまえばどうかと思うのだ。
「されど会社、たかが会社」だ。
まあ、人生気楽にやりたいが、家族もいるし、仕事にだって面白いところもある。
どうせ、人生の大部分の時間を仕事に費やさなければならないのだから、楽しみながら気楽にやっていくのもいい。
いやもう、「されど会社…」という感覚だ。
まあ、どうせ楽しんで得た地位なら、何もこだわることもない。
この会社は、良い仕事の場を与えてくれた。
まさに、感謝、感謝!
だから、仕事をやりきったら、未練なく、さっさとリタイア。
次の面白いことを見つけたい。
これで良いのではないか?
「…たかが会社」と言うことだ。
いやはや、この小説を読んで、どちらを取るか、よく考えてみよう。
結局、ぐうたら猫の薦めになってしまった。
エヘヘ!
※ヤフーブログにて 2013年6月21日 アップ
どうも、こういう企業もの小説を読むと、気分が過去へ引き戻される。
オッ、まだ、ビジネスマンだった頃の自分が抜けていないなと驚いたりしてしまう。
まあ、何と言っても、30年近く、そのビジネスの場にいたのだから、これは仕方がないだろう。
それでも、おじさん、ビジネスの場からリタイアする時には、綺麗さっぱりこの世界からオサラバするつもりだった。
そうだな、感覚としては、会社がおじさんをリストラするのではなく、おじさんが会社をリストラしたのだというつもりだった。
とは言え、別に、真っ向から会社と対立し、ゴネて辞めたわけでもないし、会社勤めに失望したわけでもない。
自然にフェードアウトしたという感じだ。
もともと、おじさんが最後に所属していた会社は、一応、会社の形態は取るが、まあ、コンサルティング・ファームのようなものだった。
各々が、それぞれの責任で、個人として仕事を動かしていた。
つまり、会社は、単に、個人が動き易いような環境を提供するフレームでしかなかったのだ。
だから、会社を辞めるのは、至極簡単。
エヘヘ!
自分自身が、「や~めた!」と宣言すれば、それで全て、何もかも清算してしまえた。
ということで、ある日突然、おじさん、自分で引退を決めてしまった。
いやはや、どうも、会社に三下り半を渡したと言うより、ビジネスの世界で生きることに決別したと言うことだろうか?
結構、サバサバしたもので、ウェットな感慨はなかった。
だから、オフィスを出る時には、全ての未練は断ち切ってきたつもりだ。
いやいや、それ程、ご大層な未練というようなものもなかった。
ただ、もう、決して、ここには戻ってこないと思っていた。
とにかく、誠心誠意、ぐうたら猫になるつもりだったのだ。
ということで、サイドデスクの引き出しにギッシリ詰め込まれていた名刺は、申し訳ないが、全て、ハサミを入れて処分した。
会社に戻すこともなかったし、家に持ち帰ることもなかった。
どだい、ビジネス関連の人間関係は、プライベートなお付き合い以外、金輪際、ご遠慮したかった。
こちらから、積極的に連絡を取る気も更々なかった。
現役の時に作った書類やレポートなども、綺麗さっぱりゴミ袋に投げ込んだ。
シュレッダーさえしなかった。
それらは、全く自分とは関わりのないものに見えていた。
社外への退社の挨拶は、ほぼ一斉メールと電話で済ましてしまった。
送別のお誘いにも出かけることもなかった。
これは、在籍していた会社でも同じだ。
確か、おじさんの好きな、ありふれた板チョコを、一人一人手渡して回り、「お世話になりました」と礼を述べ、一礼して、さっさと会社を出た。
それっきり、会社に行ったことはないし、以後の事務的な連絡以外は、ほぼ、こちらから連絡を取ったこともない。
と言うよりは、それからは、会社どころか、決して、ビジネスの世界には足を踏み入れていないのだ。
清々していると言うよりも、サバサバした感じだ。
これで、後顧の憂いなしと言うか、前だけ向いてられると思っていた。
かくて、ぐうたら猫の自由を獲得したのだ。
まあ、その時考えたのだが、大切なことは、人生は、その時その時で生産していくのがベストだということだ。
言い換えれば、今を生きているその時々を、如何に収支トントンに帳尻を合わせていくかということでもある。
上手く仕事をやれば、その時しっかり賞賛してもらえば良い。
業績を上げたなら、その時きっちりお給料をいただけば良い。
同僚の手助けをしたなら、その分だけお酒を奢ってもらえば良い。
新人の面倒をみたなら、苦手で面倒な書類の整理を手伝ってもらえば良い。
これでチャラ、満足して、帳尻を合わせたらどうだろうか?
やった、やらないの、できた、できないの、そんな、過ぎたことを余り気にしない。
こだわらなくてもいいように、今をウィン・ウィンの関係に持ち込む。
そう考えたら、会社の枠組みも、結構、気軽で良いものだし、何も拘泥されるものでもない。
こだわらなければ、後悔や恨みは残らない。
いつでも真っ白で、ただただ、次の世界に飛び込んでいけるのではないか?
いやはや、そんなに深刻に考えないで、ビジネスというフィールド、会社という道具を使いこなして、人生を楽しんでいるというくらいに考えたらどうだろう。
言わば、ビジネスの場がゴルフ場、会社がゴルフ倶楽部やボールだ。
仕事はゴルフのトーナメントゲームで、その成果はスコアと言うことになる。
所詮、スコアが良かったり、悪かったりしても、その場限り。
さっさとプレイの代金を支払ってしまえば、それでリセットだ。
ゴルフが、性質(たち)に合わないとなれば、いくらでも、他のスポーツを始め、やることはある。
まあ、人間、そんなに簡単には、割り切れないだろうが、概ね、会社勤めとは、こんな姿勢で臨めば良いのではないかと思う。
だから、リタイアする時は、0(ゼロ)である。
住む世界が変わってしまえば、あれ程関わっていたビジネスの世界の価値観や、会社における面子やプライドなんて、それ程価値を持たないものになってしまう。
これでいいではないか?
おじさんたちは、どの道、今を生きなければならないのだから…。
ところが、どうも、この小説を読んでいると、悲しいかな、多くの人は、ビジネスの場に身を置いていると、「たかが会社、されど会社」と言うような、今一つ煮え切らない宙ぶらりんの状況に置かれてしまうようだ。
リタイアしてしまったおじさんはともかく、その世界で今生きている当事者にとって、会社という存在は随分人生を規定するものらしい。
とにもかくにも、現実はこんなものかも知れない。
まあ、おじさんはおじさんの考え、今、現役で働いている会社人にとって、この小説は、「自分にとって、会社とは?」、「会社で働くとは?」と、どんな意味を持つものかを改めて考えてみる良い機会を与えてくれるかも知れない。
物語はこうだ。
大手電機メーカーの子会社で、電気製品を中心とした業務用備品を取り扱う中堅企業が舞台となっている。
あるぐうたら万年係長が、自らの部署のやり手上司を、パワハラを理由に企業内の職場環境改善委員会に訴えることになる。
誰が見ても、当たり前にぐうたらを叱責されているだけで、その非がどちらにあるかは明らかだった。
その訴えは理不尽で却下されるだろうと思われていた。
案に反して、やり手課長の方が処罰されてしまうことになる。
ところが、このパワハラ劇の裏には、行き過ぎた営業により、不正に手を染めた課長の不祥事を表沙汰にせず、葬り去ろうとする会社の意図が働いていたのだ。
実は、その不正は、会社ぐるみでの不良品納入を覆い隠すための隠蔽工作の一環だった。
コストダウンを計るために、仕様設計書に書かれた規定の強度を持たないパーツを使った製品が、長年多くの販売先に納品されてきたのだ。
状況によれば、大事故さえ発生しかねない。
本来なら、即座に製品リコールと言うことになるが、そうなれば、会社の存続に係わる大きな被害を蒙る。
課長の更迭は、まさに、口封じのためのトカゲのしっぽ切りだった。
しかし、ことはこれだけでは収まらなかった。
社内の出世競争による足の引っぱり合いのあおりを受けて、不正の事実が暴露されることとなり、やがて、この隠蔽工作の黒幕が徐々に明らかになってくるのだ。
その根っこは、会社の上層部にまで及んだ。
まさに、それは、ノルマ達成に血道を上げる企業体質そのものに病根があったのだ。
いやはや、会社ぐるみの隠蔽体質は、親会社の無理なノルマ達成の強要に翻弄される子会社の悲劇そのものだった。
そのあおりを受けて、熾烈なノルマ達成に奔走する社員たち。
やがて、企業として、最も重要なコンプライアンス(遵法意識)は忘れ去られ、目標達成のためには何をしても許されるという企業風土が醸成されていくことになる。
そうした土壌の中で、日々会社のために、強いては自分や家族を守るために、不正に手を染めて行かざる得ない会社人間の悲哀が描かれていく。
皆、ノルマを達成しても、次には、さらにそれ以上のノルマが課せられてくることは分かっている。
そこに、やりきれなさや空しさも感じている。
さらに、何のために、そのノルマの達成に狂奔しなければならないのかの理由さえも判然としないのだ。
知らないままに、会社の体質にどっぷりと浸かり込んでしまっている。
家族のためと言う大義名分も、その家族を省みる余裕もない状況なら、確実に家庭は倦んで行かざる得ない。
そんなことを漠然と意識しながらも、会社組織の中で何とか泳いで行くことに懸命になることから逃れられない。
うすうす、これで一生を終えてしまうのではないかという不安も頭をよぎってくる。
「俺の人生とは、一体、何なんだ!」
こんな会社人としての群像が生々しく描かれていくのだ。
いやはや、「たかが会社、されど会社」。
この解けない二律背反の命題に、日々、のたうち回ることになる。
まあ、「たかが会社…」と言うのは、こういうことだろう。
所詮、会社は、労働に対してお金を稼ぐ場、運良く出世して、地位と名誉をを得たとしても、それが何ほどのものだろう。
そんなことに血道を上げて、何が残るというのだ。
結局、退社する時が来るまで、会社にしがみついているだけではないか?
そこにあるのは、虚しさだけだ。
それは、分かっているけれど、会社という場を失くせば、一体自分に何ができるのだろうか?
それを、直視するのが怖い。
まだ、どうあろうと、日々、夢中になって会社から与えられたノルマを、ガムシャラにこなしている方がましだ。
その方が、家族も安心するに違いない。
まあ、ここまで考えが巡れば、「…されど会社」と言うことだろうか?
どうも、これでは、蟻地獄にはまってしまうようだ。
何とか、穴の斜面で、もがき続けられている時は良いが、力尽きれば、ずるずると底に落ち込んで、蟻地獄の餌食になってしまう。
トホホ!
おじさん、いっそのこと、このフレーズをヒックリ返してしまえばどうかと思うのだ。
「されど会社、たかが会社」だ。
まあ、人生気楽にやりたいが、家族もいるし、仕事にだって面白いところもある。
どうせ、人生の大部分の時間を仕事に費やさなければならないのだから、楽しみながら気楽にやっていくのもいい。
いやもう、「されど会社…」という感覚だ。
まあ、どうせ楽しんで得た地位なら、何もこだわることもない。
この会社は、良い仕事の場を与えてくれた。
まさに、感謝、感謝!
だから、仕事をやりきったら、未練なく、さっさとリタイア。
次の面白いことを見つけたい。
これで良いのではないか?
「…たかが会社」と言うことだ。
いやはや、この小説を読んで、どちらを取るか、よく考えてみよう。
結局、ぐうたら猫の薦めになってしまった。
エヘヘ!
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