庶民の哀愁を、笑いに誤魔化す魔術シャン 『永遠も半ばを過ぎて』より ☆☆☆
『永遠も半ばを過ぎて』 著者 中島 らも
おじさん、何となく、この中島らもさんは、近すぎて、敬遠してしまうところがある。
読みたいなと思うのだけれど、実際に、本に手を伸ばせば、どういう訳か、躊躇してしまうのだ。
まあ、何と言うか、いわゆる、本に触れた瞬間、古傷がチクチク痛み出すような気分になってしまう。
この作家の書くものに触発され、おじさんの幼い頃の、あまり品行方正ではない過去の傷から、まるで、じわりとウミが滲み出てきそうな気がするのだ。
誰にも、会いたくない幼馴染がいるのではないか?
道で出会えば、相手が気づかないうちに、そっと、電柱の陰に隠れてやり過ごしたい手合いだ。
いやもう、後ろめたくも、気恥ずかしい思い出を知られ過ぎている。
子供の頃の原体験とデジャブーしてしまう。
まあ、中島らもさんは、そんな煙たさを感じさせる存在なのだ。
失礼な言い方だが、ひょっとしたら、おじさんの子供の頃の原体験と言うか、その陰の部分を共有している象徴のような人なのかも知れない。
もちろん、中島らもさんに、責任があるわけではない。
かと言って、何らかの関わりのあった知り合いでもない。
テレビを通した、おじさんの一方的な面識しかないわけだ。
書かれているものが、とりたてて、性に合わないと言うものでもない。
読んだら、読んだで、すごく面白いのだ。
とにかく、これは、おじさんのごく個人的な問題だ。
ところが、一方では、たまらなく読んでみたいと言う気にもなる。
いやはや、治りかけた膝っ小僧の傷口のかさぶたを剥がすような感覚である。
どうも気になるし、イタカユイような心持ちなのだ。
とにかく、今回は、お盆で、里心もついたし、古傷がジクジクしだしたと言う感じだ。
まあ、いいか、と言うことで、カサブタを剥がす時のあの快感を期待して読んでみることにした。
以前、中島らもさんの本を読んだのは、一体、いつ頃だったろうか?
もう、かれこれ、2~3年は経っているだろう。
すごくショッキングだったのを覚えている。
ショッキング過ぎて、本のタイトルすら覚えていない。
その時の読書は、カサブタの傷が、まさに、まだ充分に治りきっておらず、それを無理にひき剥がすことで、また新たに血が滲み出したと言う感じだった。
厭な気分だった。
実は、きっと、中島らもさんとおじさん、青春を過ごした頃の生活環境が、一緒だったような気がしてならないのだ。
大阪の下町、工場と商店が混在した裏町エリア。
まず、生きることが最優先の生活。
強い上昇志向にも拘らず、中流の下の方にいると言う屈折した冷めた感覚。
奇妙な生存競争と助け合い人情の混在……
何やかんやで、共に手の内を知られているというような思いに陥ってしまうのだ。
実際、中島らもさんは、おじさんが暮らしていた大阪の下町にある商店街の、そのまた横道の、さらに路地の下宿屋で暮らしていたことがあるようだ。
ただし、おじさん、そのことを確認したわけではない。
ただただ、小説からの類推だ。
おじさんは、その商店街にある小さなテーラーの小汚い洟垂れ次男坊だった。
年齢から逆算すれば、中島らもさんは、まだコピーライターの下積み時代、ゆめゆめ、テレビにも出演することなく、もちろん、小説家でもなかったろう。
いやはや、何と、その小説では、この我が生まれ育った商店街が舞台になっていたのだ。
それも、ハチャメチャの商店街に描かれていた。
いやもう、こんな具合だ。
商店街の中華料理店のおじさんは、実は、裏の稼業は、中国人の暗殺者だった。
料理に使う肉切り包丁を振り回して、通行人を追いかけ回すという設定になっていた。
殺人の立ち回りが、白昼堂々、商店街の道の真っ只中で、実行されるわけだ。
これは、もう、いただけない。
おじさん、今でも、その中華料理店の主人の顔を、しっかりと思い出すことができる。
むろん、中国人ではない。
れっきとした日本人だ。
殺人なんて、とんでもない。
見るからに、善良で、人の良さそうな主人だった。
きっと、中国風の肉切り包丁など、使い方も知らないのではないか?
見たこともないかも知れない。
おじさん、いくら、創作の世界であったとしても、これには、いささか耐えられなかった。
我が商店街が、殺人ストリートになっているのだ。
まあ、決して、上品な商店街とは言えなかったが、必殺仕置き人のように、白昼堂々と、真昼の決闘よろしく殺人がまかり通るような街でもなかった。
ただし、独特の下町のしたたかさや狡猾さも、きっちり備えていた。
皆、生きることに必死だったから、軽犯罪くらいは当たり前に見過ごされてしまう、猥雑な街だったことには違いがない。
だから、中島らもさんの描こうとする雰囲気は、まんざらでもなく、よく伝わってくる。
いやはや、カサブタだ。
おじさん、早々に、この本を読んでしまったわけだが、まあ、いまだに、その後遺症をずっと引きずっていることも確かだ。
これは、なかなか立ち直れない。
今回のこの本は、まさに追い打ち、ホント、そんなことになってしまったような気がする。
中島らもワールドは、やはり、おじさんを後ずさりさせる。
さて、御託は、これくらいにして、本題の物語だが、主人公は、40歳を過ぎた独身1人暮らし。
キーボードを叩き続けて、早10年。
それでも仕事が好きで、日々文句を言うでもなく、黙々と電算機に向き合っている写植オペレーターだ。
その静穏で安逸な暮らしを突然引き裂くように、高校時代の同級生が飛び込んでくる。
実は、この男、詐欺にかかり、オヤジの会社を倒産させて以来、自ら、詐欺師になったという経歴の持ち主だった。
ケチな詐欺に失敗し、借金の返済から逃れるため、ヤクザに追われて、友達の家に飛び込んできたのだ。
それから、この2人の珍妙で、ウジの湧くような男2人のアパートでの同居が始まる。
とは言っても、男と男の、えっと……、その手の関係ではない。
やがて、主人公は、厭々ながらも、この男が次々と持ち込む詐欺案件に巻き込まれて行くのだ。
まあ、巷によくあるチンケな詐欺の連発だが、このコンビが関わって行けば、俄然、面白くなる。
とにかく、おじさん、詐欺師の同級生に振り回される主人公の大阪下町気質と言うか、いかにも、大阪的なまじめなひた向きさと開き直りが笑えるのだ。
ところが、笑った後で、やはり、どこか、口の中に後味の悪い苦さが残っている。
おじさん、また、今回も、この苦さを、見事に堪能してしまった。
いやはや、この本には、中島らもさん一流の、庶民の哀愁を笑いに誤魔化してしまう強烈な人生への皮肉と諦め、嫌悪感がある。
そして、ほんの微かだが、明日に向けた前向きの希望と絶望もあった。
久しぶりの中島らもさんは、やっぱり、中島らもさんだったのだ。
おじさん、また、当分は、電信柱の陰に隠れることになるだろう。
いやもう、天国から戻ってきた中島らもさんに、泥酔して、睡眠薬でも薦められた試しには堪らない!
※ヤフーブログにて 2012年9月8日 アップ
おじさん、何となく、この中島らもさんは、近すぎて、敬遠してしまうところがある。
読みたいなと思うのだけれど、実際に、本に手を伸ばせば、どういう訳か、躊躇してしまうのだ。
まあ、何と言うか、いわゆる、本に触れた瞬間、古傷がチクチク痛み出すような気分になってしまう。
この作家の書くものに触発され、おじさんの幼い頃の、あまり品行方正ではない過去の傷から、まるで、じわりとウミが滲み出てきそうな気がするのだ。
誰にも、会いたくない幼馴染がいるのではないか?
道で出会えば、相手が気づかないうちに、そっと、電柱の陰に隠れてやり過ごしたい手合いだ。
いやもう、後ろめたくも、気恥ずかしい思い出を知られ過ぎている。
子供の頃の原体験とデジャブーしてしまう。
まあ、中島らもさんは、そんな煙たさを感じさせる存在なのだ。
失礼な言い方だが、ひょっとしたら、おじさんの子供の頃の原体験と言うか、その陰の部分を共有している象徴のような人なのかも知れない。
もちろん、中島らもさんに、責任があるわけではない。
かと言って、何らかの関わりのあった知り合いでもない。
テレビを通した、おじさんの一方的な面識しかないわけだ。
書かれているものが、とりたてて、性に合わないと言うものでもない。
読んだら、読んだで、すごく面白いのだ。
とにかく、これは、おじさんのごく個人的な問題だ。
ところが、一方では、たまらなく読んでみたいと言う気にもなる。
いやはや、治りかけた膝っ小僧の傷口のかさぶたを剥がすような感覚である。
どうも気になるし、イタカユイような心持ちなのだ。
とにかく、今回は、お盆で、里心もついたし、古傷がジクジクしだしたと言う感じだ。
まあ、いいか、と言うことで、カサブタを剥がす時のあの快感を期待して読んでみることにした。
以前、中島らもさんの本を読んだのは、一体、いつ頃だったろうか?
もう、かれこれ、2~3年は経っているだろう。
すごくショッキングだったのを覚えている。
ショッキング過ぎて、本のタイトルすら覚えていない。
その時の読書は、カサブタの傷が、まさに、まだ充分に治りきっておらず、それを無理にひき剥がすことで、また新たに血が滲み出したと言う感じだった。
厭な気分だった。
実は、きっと、中島らもさんとおじさん、青春を過ごした頃の生活環境が、一緒だったような気がしてならないのだ。
大阪の下町、工場と商店が混在した裏町エリア。
まず、生きることが最優先の生活。
強い上昇志向にも拘らず、中流の下の方にいると言う屈折した冷めた感覚。
奇妙な生存競争と助け合い人情の混在……
何やかんやで、共に手の内を知られているというような思いに陥ってしまうのだ。
実際、中島らもさんは、おじさんが暮らしていた大阪の下町にある商店街の、そのまた横道の、さらに路地の下宿屋で暮らしていたことがあるようだ。
ただし、おじさん、そのことを確認したわけではない。
ただただ、小説からの類推だ。
おじさんは、その商店街にある小さなテーラーの小汚い洟垂れ次男坊だった。
年齢から逆算すれば、中島らもさんは、まだコピーライターの下積み時代、ゆめゆめ、テレビにも出演することなく、もちろん、小説家でもなかったろう。
いやはや、何と、その小説では、この我が生まれ育った商店街が舞台になっていたのだ。
それも、ハチャメチャの商店街に描かれていた。
いやもう、こんな具合だ。
商店街の中華料理店のおじさんは、実は、裏の稼業は、中国人の暗殺者だった。
料理に使う肉切り包丁を振り回して、通行人を追いかけ回すという設定になっていた。
殺人の立ち回りが、白昼堂々、商店街の道の真っ只中で、実行されるわけだ。
これは、もう、いただけない。
おじさん、今でも、その中華料理店の主人の顔を、しっかりと思い出すことができる。
むろん、中国人ではない。
れっきとした日本人だ。
殺人なんて、とんでもない。
見るからに、善良で、人の良さそうな主人だった。
きっと、中国風の肉切り包丁など、使い方も知らないのではないか?
見たこともないかも知れない。
おじさん、いくら、創作の世界であったとしても、これには、いささか耐えられなかった。
我が商店街が、殺人ストリートになっているのだ。
まあ、決して、上品な商店街とは言えなかったが、必殺仕置き人のように、白昼堂々と、真昼の決闘よろしく殺人がまかり通るような街でもなかった。
ただし、独特の下町のしたたかさや狡猾さも、きっちり備えていた。
皆、生きることに必死だったから、軽犯罪くらいは当たり前に見過ごされてしまう、猥雑な街だったことには違いがない。
だから、中島らもさんの描こうとする雰囲気は、まんざらでもなく、よく伝わってくる。
いやはや、カサブタだ。
おじさん、早々に、この本を読んでしまったわけだが、まあ、いまだに、その後遺症をずっと引きずっていることも確かだ。
これは、なかなか立ち直れない。
今回のこの本は、まさに追い打ち、ホント、そんなことになってしまったような気がする。
中島らもワールドは、やはり、おじさんを後ずさりさせる。
さて、御託は、これくらいにして、本題の物語だが、主人公は、40歳を過ぎた独身1人暮らし。
キーボードを叩き続けて、早10年。
それでも仕事が好きで、日々文句を言うでもなく、黙々と電算機に向き合っている写植オペレーターだ。
その静穏で安逸な暮らしを突然引き裂くように、高校時代の同級生が飛び込んでくる。
実は、この男、詐欺にかかり、オヤジの会社を倒産させて以来、自ら、詐欺師になったという経歴の持ち主だった。
ケチな詐欺に失敗し、借金の返済から逃れるため、ヤクザに追われて、友達の家に飛び込んできたのだ。
それから、この2人の珍妙で、ウジの湧くような男2人のアパートでの同居が始まる。
とは言っても、男と男の、えっと……、その手の関係ではない。
やがて、主人公は、厭々ながらも、この男が次々と持ち込む詐欺案件に巻き込まれて行くのだ。
まあ、巷によくあるチンケな詐欺の連発だが、このコンビが関わって行けば、俄然、面白くなる。
とにかく、おじさん、詐欺師の同級生に振り回される主人公の大阪下町気質と言うか、いかにも、大阪的なまじめなひた向きさと開き直りが笑えるのだ。
ところが、笑った後で、やはり、どこか、口の中に後味の悪い苦さが残っている。
おじさん、また、今回も、この苦さを、見事に堪能してしまった。
いやはや、この本には、中島らもさん一流の、庶民の哀愁を笑いに誤魔化してしまう強烈な人生への皮肉と諦め、嫌悪感がある。
そして、ほんの微かだが、明日に向けた前向きの希望と絶望もあった。
久しぶりの中島らもさんは、やっぱり、中島らもさんだったのだ。
おじさん、また、当分は、電信柱の陰に隠れることになるだろう。
いやもう、天国から戻ってきた中島らもさんに、泥酔して、睡眠薬でも薦められた試しには堪らない!
※ヤフーブログにて 2012年9月8日 アップ
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