アガサ・クリスティもびっくり! 『致死量未満の殺人』より ☆☆☆

『致死量未満の殺人』 著者 三沢 陽一 

いやあ、居ると思う、こんな女性。

いつも自分が女王様になりたい、いや、女王様でなければならないと言う女性だ。

まず、持って生まれた素晴らしい美貌が前提となる。

それに、資産家の娘で、育ちが良くなければならない。

まあ、良家の淑女と言うところだろうか?

だから、必然、周囲の目が彼女に向かう。生まれながらにして注目される存在だ。

そして、優秀な知性に芸術的才能、ファッションセンスに優れ、エレガントで上品だ。

いやもう、第一印象では、誰もが、その美しさと優しさを感じ、心服してしまう。

ところが、その本性には、実は魔物が棲んでいる。

いわゆる、《魔性の女》と言うのだろうか?

時々、芸能人の中に、次々と短期間に、不倫、略奪愛など何でもありで、奔放に愛の遍歴を重ね、《魔性の女》として話題になる女性たちがいる。

いやあ、ここでは、芸能人のゴシップを語ることが本位ではないから、その名前を上げることはしない。

おじさんが語るまでもなく、幾人かの女性が思い浮かぶのに違いない。

ただ、本小説における《魔性の女》とは、単に、片っ端から良いなと思った男に容易に周波を送る浮気性の女と言うのではない。

心の中の魔性が問題だ。

例えば、どんな場であろうと、自分が登場する舞台ではヒロインを演じ、衆目が集まるように自己プロデュースしなければ気が済まない。

完璧なまでのナルシストだ。

それを邪魔する者は、誰だって許さない。

理由もなく陰険なワナを仕掛けたり、周辺をそそのかせて巧妙に苛めを始める。

自分の優位性を保つためには、自らの存在をおびやかしそうなライバルに対しては、関わりもないのに容赦しない苛めが繰り返される。

執拗に、相手が傷つく言動や行為を巧妙に繰り返す。

そこで描かれるシナリオは、余りにも冷徹で残酷だ。

気位を保つため、愛情のない恋愛を、いとも平気で演じることができる。

それも、絶妙の演技を伴なってだ。

時として、悪意のある目的のために、心なき愛情の交換すら厭うこともない。

自身の魅力により、男をコントロールし、手玉に取る。

決して、男が支配することを許さない。

男の風下に立つことを望まない。

男は、彼女の前では常に女王さまの席へエスコートする役割を演じなければならない。

忠実な家臣でなければならないのだ。

だから、誰からも無視されることに絶えられず、他人の幸せに嫌悪感を抱く。

ジェラシーでもなく、友人の恋人を欲しがる。

ただただ、友人の恋愛を引き裂いていく。

そして、それを風評にして、残酷にも友人を曝しものにする。

いや、友人だけでは止まらない。

自身の周辺にいる知人にまで魔手を伸ばし、大切に守ってきたプライドをズタズタにする。

さらに、関わりのないその家族にすら、その毒牙を向けるのだ。

そして、これらのあらゆる行為から引き出される、相手の怒りや悲しみの感情に対し、罪の意識など毛頭持つこともなく、平然としていられる。

その弱者を憎々しく嘲る。

いやはや、これらは、いささか極端に書き過ぎた嫌いがあるが、まさに、こうした、人を弄ぶ魔性の女王様がこの物語に登場してくるのだ。

もちろん、ご想像の通り、当然ながら、結末は、恨みを買って殺害されてしまうことになる。

その物語はこうだ。 

 …… 

雪で降り込められた軽井沢の別荘に、大学で日本法制史を専攻するゼミの学生たちが5名集まっていた。

いわゆる、ゼミの親睦旅行だ。

女性が3人、それに男性が2名だった。

この別荘は、ゼミの教授が所有していたが、残念ながら、教授自身は急な所用ができ、参加することができなかった。

その他に、別荘を管理している中年夫婦が学生たちの世話をしていた。

あいにく、外は猛烈に吹雪いていたので、一歩も別荘を離れることができない。

まさに、荒れに荒れた暴風雪の悪天候だった。

とは言え、別荘内では暖炉が盛んに燃えさかり、居心地良く温められている。

5人が集まるダイニングでは、心尽くしのフランス料理が提供され、くつろいだ時間が流れている。

ところが、そこで行われていた会話は、まさに、女王様への厳しい非難だった。

誰もが彼女の被害者だったのだ。

いやもう、他の学生が、1人ずつ、彼女の非道をぶちまける。

彼女の恋愛遊びに弄ばれた男子学生、自分の妹を自殺にまで追い込まれた男子学生、ゼミの教授との恋愛を暴露された女子学生、弱みを握られ恋人との別れを強要されている女子学生、いやあ、次々と、彼女に非難が投げかけられる。

しかし、夕食後に繰り広げられた壮絶な糾弾バトルも、結局は、不毛なののしり合いのまま、終焉せざる得なかった。

何しろ、女王様は周囲の追求にも拘わらず、全く、良心の痛みを感じる風もなく、常に平静だった。

やがて、彼女は、疲れたからと、一方的に口論に終止符を打ってしまう。

そして、眠るために、二階の部屋に上がろうとした、その時だ。

やにわに、階段の中ほどから、身体ごと崩れ落ちたのだ。

その激しい物音に驚いた4人が、その場に駆けつけてみると、彼女は階下に昏倒したまま、もはや意識もなく、既に半死半生の状態だった。

しばらく苦しそうに悶絶していたが、間もなく、喘ぎを止めた。

死因はメチル水銀による中毒死だった。

メチル水銀は、あの水俣病の原因物質になった毒物である。

現在では使用が厳格に管理されているが、かっては、農薬として容易に手に入れることのできる劇物だった。

だが、その毒性は、青酸カリにも匹敵する。

と言うことで、この犯罪は、雪で閉ざされた別荘で起こった毒薬殺人事件と言える。

だが、彼女に手を下せるのはゼミの仲間の僅か4人、それも、全て、彼女を殺害するだけの強い動機を持っていた。

犯人は、この4人の中の誰か1人に違いない。

誰が考えても、警察による犯人の探り出しは容易だと思われた。

ところが、懸命な裏付け捜査にも関わらず、この4人の中から、1人の犯人を特定することができなかったのだ。

犯行状況から言えば、この4人の誰かの犯行としか考えようがない。

だが、その犯人を決定できる確かな確証がないのだ。

そのため、この事件は推定無罪の原則により、迷宮入りになってしまう。

それから、15年が経った。

もう間もなく、殺人の時効が成立する、その日の夕刻のことだ。

あの犯行の場にいた1人の女学生が経営する喫茶店に、あの場にいた1人の男子学生が訪ねてくる。

そして、自らが真犯人であることを、彼女に告白するのだ。

彼が語ったのは、まさに、『致死量未満の殺人』と言う周到なトリックだった。

しかし、物語はここでは終わらない。

そこから、驚くべき、ドンデン返しの連続が待っていた。 

 ……

まあ、ざっと、こんなストーリー展開になっているが、これ以上の物語の顛末を明かすことは、これから、このミステリーを手に取る人にとって興醒めになる。

そこで、おじさん、粗筋を追うのを止めて、真犯人がこの事件のトリックを思いつく契機になった法律学上の奇妙な論理的命題について、ここでは記しておきたい。

まず、本書の中から、その説明について書かれている箇所を引用する。 

 ……

XがZを殺そうとして、食べ物に毒を入れておいたけれど、Yも同じように毒を入れ、それを食べたZが死んだと言う事件において、XとYの罪はどうなるか?…

AがなければBと言う結果が生じなかったと言う条件関係に当てはめると、Xがいなくても、Zの死と言う結果が訪れた筈だし、逆に、Yがいなくても同様の結果は得られる筈で、XもYも条件関係に当てはまらなくなる。

条件関係に当てはまった時に因果関係が成立して、罪に問われると言う考え方では、どうも奇妙なことになる。

 ……
  【本文中より抜粋】 

どうだろうか?

本来、警察の捜査の対象は、薬物の混入者に向かう。

当然、誰が薬物を入れたかの確証を掴めば、犯人を特定できる訳だ。

真犯人として逮捕できる。

しかし、上記の奇妙な論理命題を現実の犯行として当てはめてみれば、どうなるだろうか?

もちろん、殺意はあるが、その殺意は誰のものか曖昧になり、曖昧になれば、罪には問うことができなくなる。

いささか、ややこしいが、じっくり考えてみて欲しい。

そうすれば、この『致死量未満の殺人』のトリックが成立することが見えてくる。

いやまあ、タイトルが示す様に、毒物を致死量未満で扱ってみたら、どうなるだろうか?

そして、複数の人間が毒物を混入したと考えればどうだろう。

混入した対象物も1つだけとは限らない。

さらに、犯人自身が、周囲の目を混乱させるため致死量以下の毒薬を同時に服毒する手もある。

また、解毒剤を使用することも可能だ。

さてさて、物語のドンデン返しの筋書きが、ぼんやりとでも見えてきただろうか?

いささか現実的で生々しくなるかもしれないが、1つの例え話しとして、話題に上がった和歌山のドンファンさんの怪死に当てはめて考えてみるとよく分かる。

断わっておくが、これは、おじさん、例として活用させてもらっただけである。

あくまで、おじさんの例え話しだ。

現実とは関係ない。

事件の概要は、よくご存知だろうから、ここでは、説明をオミットする。

いやはや、ドンファンさんが、仮に、致死量未満の覚せい剤を、まず、事前の夕食と共に摂るビールに混入されていたとする。

その後、食卓から二階に上がり、バスを使用する。

そして、風呂あがりに、喉の渇きを癒すために、置かれていたミネラルウォーターに手を伸ばす。

実は、その中にも、同時に覚せい剤が混入されていたとすればどうだろうか?

この両方を合わせ飲めば、致死量を越える量を身体に取り込むことになってしまう。

つまり、最初に飲んだビールに混入されていた覚せい剤の量だけでは、死に至らない。

その上、覚せい剤は消化器の胃から吸収されるため、その作用は、直接血管注射により血液に送り込まれるのと比べれば、身体に影響が現れるには、かなりのタイムラグがある。

さらに、風呂の後、ドンファンさん自身がミネラルウォーターを飲むと致死量を超えてしまうように、覚せい剤を予め混入しておく。

そうすれば、風呂あがりに、しばらくして、覚せい剤の症状が現れ、死に至る。

結局、致死量を越えるまで、覚せい剤入りと見られるウォーターを飲んだのは、ドンファンさんの自らの意志となる。

だから、条件関係は成立せず、殺人の因果関係は証明できない。

犯罪の意図は限りなく不透明になってくる。

いやまあ、犯行後、使用した覚せい剤の処分と入手系統を完全に隠蔽してしまえば、限りなくグレーだが、警察は犯行を証明できないことになる。

事前に死んでいる愛犬に覚せい剤の反応が現れたとしたら、まず、その愛犬によって、覚せい剤の致死量を確認したと考えられるかも知れない。

いやあ、おじさん、ちと、この物語のトリックの成立の方に傾斜し過ぎたようだ。

本作品は、アガサ・クリスティ賞を受賞しただけに、本格的な謎解きミステリー小説の風格を持っている。

オーソドックスだが、中々面白い。

さて、実は、この『致死量未満の殺人』のトリックは、中々読み応えがあるのだが、最後のドンデン返しは、実はおじさん、冒頭で取り上げた、人間の心の魔性の問題へと回帰していく。

おじさんたちは、どうも、魔性の女などと言って、自分のことは蚊帳の外に置いてしまうが、本当は、他人が魔性なのではなく、自分自身の心の奥底、闇の部分に、この魔性を秘めているのではないだろうか?

女王様とおじさんたちの相違は、ただ単に、その心奥にある闇の部分を、普段から十分にコントロールできているかいないかだけの違いではないだろうか?

そして、そのコントロールは、本当に些細なことで制御が効かなくなるほどに脆いものだ。

いやはや、最後に、この物語は、女王様以上に怖い、誰もが深層に持っている魔性によって、この事件の本当の殺人シナリオが描かれていたことが明らかになる。

おお、コワ!

いやはや、この物語によって、おじさんたちの心の魔性を覗いてみることができるかも知れない。

 【良質のミステリー小説を傍らに、日がな過ごしたい】

  ※ヤフーブログにて 2018年8月20日 アップ

"アガサ・クリスティもびっくり! 『致死量未満の殺人』より ☆☆☆" へのコメントを書く

お名前
ホームページアドレス
コメント