筋の通ったハチャメチャ落語家 『CD/てんこもり!六代目 笑福亭松鶴全集』より ☆☆☆☆

『CD/てんこもり!六代目笑福亭松鶴全集』


いやもう、抱腹絶倒、七転八倒の大笑い。

笑いの分量から言えば、上方落語四天王の中で、この人が一番だろう。

と言うことは、笑いの王国、大阪では、もっとも、上方の落語家らしい落語家と言える。

まあ、親が落語家だったために、小学生から、酒は飲むは、煙草を吸うは、悪所通いはするは、ハチャメチャに育った人らしい。

それが、どうも、身を持ち崩すこともなく、全て、芸の肥やしになっているようだから凄い。

やはり、芸人の家に生まれると、遊びにも体制と言うものが備わっているらしい。

限度を知っていると言うか、おじさんたちが伺いも知れないような、遊びの勘所をわきまえていると言うか、うまく世間を泳いでいく、したたかな所もあるのだろう。

まあ、春団治のように、身を破滅させるようなことはないが、とにかく、この人は、上方芸人の自己破滅的な伝統のDNAを純粋に引き継いだ、根っからの大阪の落語家と言う感じだ。

この仕事をはずしたら、どんな仕事をししていただろうと、これは他人事、どうでも良いことながら、思わず心配になってしまう。

遊び、弟子の育成、普段の奇態な暮らしなど、その武勇伝には事欠かない。

特に、酒が入れば、とてつもなく、奇人変人に変身したと言う。

いやもう、この人ほど、弟子泣かせはいなかっただろう。

酒の一升瓶で頭を殴られた弟子も多いのに違いない。

まあ、病院に行ったと言う話しは聞くが、死人まで出ていないので、手加減はされているのだろう。

数年前に、NHKの朝ドラで、『ちりとてちん』と言う番組が放映されていた。

女性落語家の入門から、その成長までを描いた連続ドラマだ。

大阪での落語専門の寄席【繁盛亭】のオープンと相まって、一躍、落語ブームを巻き起こした。

そのヒロインが弟子入りする、名人だが、強面で、破天荒な師匠のモデルとなったのが、この人だと言う。

大体、大阪でも、ケッタイな落語家師匠と言えば、この人のことを指すと言っても過言ではない。

亡くなって、なお、サスガ!と周囲をうならせたエピソードがある。

存命中は、酒と女と賭け事で、いわゆる、落語の枕で言うところの「男の三荼羅煩悩(さんだらぼんのう/さんどらぼんのう)」で、いつも、付馬や借金取りに追われていた。

今、話していたかと思うと、急に、居なくなるのが、この人の常だ。

突然、消えてしまう。

となれば、そこに、必ず、借金取りが現れるらしい。

どうも、予感と言うか、第六感と言うか、借金取りのニオイを嗅ぎ分けると言うのだ。

そんな貧乏神を背たろうていたような人だが、亡くなってから、自宅を整理してみると、何と、押し入れの中から、現金で、1千万円もの大金が転がり出てきたと言うのだ。

ちゃんと、落語にある、三途(さんず)の川の渡し賃を貯めていたのだ。

こんな落語家らしいオチのある逸話は、いくらでも出てくる。

ところが、ドッコイ、この師匠から、上方落語の隆盛を担う多くの弟子が排出するのだ。

まあ、この師匠あって、この弟子ありと言うような、素行の悪い弟子もいるにはいるが、笑福亭仁鶴、鶴光、鶴瓶など、皆、この人の弟子である。

一世を風靡した人気者になった。

おじさんなど、今後の上方落語界では出色の上手い落語家だと思っている、角座(かくざ)あらため、笑福亭松亨(しょうきょう)も、この一門に属している。

いやはや、失礼だが、あの鬼瓦のような顔と、雷鳴のような大きなダミ声がいけない。

本当は、どこか、厳しくとも憎めない、情の深い人間的な温かみのある人なのだろう。

でなければ、あの観客の爆笑はとれない。

どうも、破天荒さが際立っている感じだが、おじさんは、その芸風は、如何にも上方の下町っぽくて好きである。

演じられるネタも、下世話なものが多いが、大阪自体が下世話なのだから仕方がない。

この人が演じると、実にはまるのだ。

東京での落語は、真打制度なども厳格で、どうも落語も歌舞伎を追えと言わんばかりに、芸術思考が強いように思える。

名称からして、芸術協会など銘打っている落語家の団体もあると聞く。

いやはや、実は、桂米朝と笑福亭松鶴は、実に、良い飲み友達だったらしい。

ところが、落語に対しての姿勢が、全く違っていた。

あくまでも、笑福亭松鶴は、寄席の人だったのだ。

寄席と言っても、上方では、東京のように、落語の常席はない。

大阪の寄席と言えば、松竹と吉本興業の劇場(演芸場)である。

漫才も、新喜劇も、マジックも、曲芸も、講談も、落語も、音曲も、全て、ごった煮だ。

お客さんも、何も落語ばかりを聴こうと思って、劇場へ足を運んでいるのではない。

いやもう、本当に、落語家としては、この上なく厳しい環境なのである。

と言うことで、桂米朝などは、寄席や演芸場から離れて、その演じる主戦場を、何百人も収容できる音楽ホールなどへ移した。

いわゆる、独演会を盛んに開催して、落語の芸術性を追求していったのである。

これが上手くいった。

果ては、人間国宝となったのだ。

一方、笑福亭松鶴は、大阪のごった煮の寄席や演芸場で演じることにこだわった。

そうした環境の中で、漫才をはじめ、他の演芸と伍して、存在感のある芸を目指したのである。

桂米朝が、いくら、大ホールでの独演会を進めても、頑として受け入れなかったと言う。

これは、まさに桂春団治が方向づけた上方落語の伝統に違いない。

まあ、芸術として聞いてくれるインテリもいいが、「笑い」はどこまで行っても庶民の娯楽、普段の仕事や暮らしの中で、いわゆる、うっとうしいことを笑いでぶっ飛ばすために落語を聴きに来る。

いやはや、まさに、一笑に付されて、なんぼの落語家なのだ。

おじさんは、この芸人魂に感服せざるえない。

やはり、ただのノンベイ師匠ではない。

さて、肝心の芸風だが、とにかく声がでかい、汚い、その上、柄(がら)が悪い、その分、間(ま)がはっきりしていて、メリハリがあり、噺が聴きやすい。

おじさんは、この人の落語は、『勢いの落語』だと思っている。

一本調子に思える語り口が、突然、虚をつかれる大声の勢いで、笑わずにはおられなくなるのだ。

松鶴の十八番、『相撲場風景』での、力士への掛け声を思い起こしてほしい。

掛け声だけで、笑いに誘われるのだ。

まあ、ゴッタ煮の寄席で、自己主張するには、この芸風がふさわしかったのかも知れない。

ところが、一見、粗野で決して上品だとは言えないこの芸風は、妙に、落語の登場人物達に、活き活きとした活力を与えている。

と言って、この人の芸の幅が、上っ面かと言えば、決してそうではない。

一度、この人演じる『質屋芝居』や『らくだ』を聴いてみると良い。

如何に、上っ面だけの芸ではなく、奥深さと幅を持っていることが判ると思う。

おじさんは、やはり、この松鶴の『高津の富くじ』をお勧めしたい。

また、酒飲みを演じさせたら、天下一品だろう。

松鶴は、晩年、普段、若干、語り口で、ろれつがおかしくなると言うか、噛むと言うのだろうか、落語界ではどう言うか分らないのだが、言葉が引っかかるところがあった。

これほどの師匠だから、通常の落語でも、これも愛嬌になっているが、酒飲みがクダを撒くとなると、却って、このロレツのおかしさが、妙にいい味に変わる。

『常燗屋』もお勧めする。

と言うことで、くだくだと書き連ねてきたが、まあ、とにかく、聴いてみて欲しい。

ただし、おじさん、これまで、落語の心地よい笑いは、自然な眠りに誘ってくれる良い睡眠薬代わりになると書いてきた。

どうも、この人、松鶴の場合は、睡眠薬と言うよりも、弱った病人の、気付け薬に向いているようである。

ゆめゆめ、ご使用方法を、お間違いなく。

   ※ヤフーブログにて 2012年10月6日 アップ

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